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須佐之男命は天上界の中でも、上位の神だ。
荒ぶる神と恐れられたほど、大いなる破壊力を持つ、神力の高い神だ。
地上の化け物など、いかほどでもあるまい。恐るるに足らぬ。
とは言え、造作なく成敗してしまっては、話の流れ的には都合が悪かろう。
壮絶な戦いを繰り広げねば、なるまい。
場を演出するにあたり、知恵を巡らせた。
「屋敷を取り巻く垣根に八つの門を作り、八つの樽に強い酒を注ぎ、それぞれの門に据え置け」
手間の掛る手立てを老父に申し付けた。
老父母と娘は、汗だくで支度を整えた。
その晩、雷鳴が響いた。
否、雷鳴のようだが、雷鳴ではない。
山の木々が次々に引き裂かれ、なぎ倒される、その音が響いていた。
暗闇にこだまする不気味な大音響とともに、巨大な八俣の大蛇が屋敷に迫った。
一体から生える八つの頭と八つの尾を、四方八方にくねらせている。
飛び出すように見開かれた目。その白目部分が血の色であるのは、見るからにオドロオドロしい。
十拳剣を片手に迎え出た須佐之男は、わざと自らの力を解き放ち、戦いの場に雷鳴と暴風と豪雨を加えた。
雷鳴と暴風と豪雨。
壮絶な戦いの演出としては、かなりの臨場感が期待できる。
用意された八つの酒樽にそれぞれ八つの頭を突っ込む化け物を眺めながら、須佐之男命の心は高揚した。
これほど巨大で異様な姿の化け物を目にするのは、初めてだった。
須佐之男は手応えのありそうな獲物に、不敵な笑みを浮かべた。
化け物の急所を狙ってひと思いに殺しては、戦いを見守る者にとっても味気なかろう。
自らが起こす暴風に髪を逆立たせ、自ら降らす雨にその髪を濡らす。
雷の強い光に浮かびあがる憤怒の形相は、目にした者を震え上がらせる。
肝の小さき者なれば、失神するやも知れぬ 。
舞台は最高潮に達し 、満を持して須佐之男命は十拳剣を振り上げた。
各々に長くうねる八つの首から八つの頭が、次々に切り離される。
強い酒を振る舞ったのは、成り行きで殺すことになった化け物に対する、須佐之男命の情けであった。
酔いが回ることで、切り落とされる際の痛みが軽減されたはずだ。
化け物は首を失くしても、なお、八つの尾を激しくくねらせていた。
須佐之男は、順に八つの尾を切り上げた。
何本目かの尾が十拳剣》を弾いた。
あろうことか、須佐之男命の十拳剣が刃こぼれした。
腑に落ちない。尾がそれほど堅いはずはない。
首を傾げながら、その尾をさらに切り裂いた。
すると、その尾から、血と肉にまみれた剣が転がり落ちた。
「これは、天上の上位神のみが持つ十拳剣ではないか。この化け物は、もとは神であったのか」
なぜ、このような化け物に身をやつし、嫌われ者として身過ぎ世過ぎしてたのだ。
よもや、過去に天上界を追放された神ではあるまいな。
八俣の大蛇は、特別威力のある十拳剣を尾に隠し持っていた。
経緯のほどはわからぬが、厄介神のなれの果てという想像も的外れではないかもしれぬ。
高天原を追放された我が身と、化け物の無残な姿が重なった。
須佐之男は転がり落ちた剣を拾い上げると、付着していた血と肉を丁寧に拭った。
高天原における乱暴な振る舞いの詫びとして、姉の天照大御神にこの極上の十拳剣を贈るとしよう。
須佐之男は姉の機嫌が直ることを、期待した。
須佐之男命が天照大御神に贈ったこの剣は、草薙の剣と呼ばれ、三種の神器の一つとなる。
八俣の大蛇成敗の翌朝。
昨夜の戦いで崩れ落ちた門の前で、親子は最後の別れを惜しんでいた。
小さな櫛から元の姿に戻り、久しぶりに笑顔を見せた娘の肩を抱く老夫婦は、元気であれと繰り返し言い聞かせていた。
「父様も母様もお元気でお暮しください。新しい住まいにも、必ずやお呼び致します」
何度も繰り返されるやりとりを、須佐之男は辛抱強く見守っていた。
娘は、老父母から目を離すと須佐之男命に、初々しい微笑みを向けて頷いた。
それを合図に須佐之男命は櫛名田比売を抱き寄せ、旅立ちの一歩を踏み出した。
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