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因幡《いなば》の白ウサギ
因幡の国には、いくつもの郷と呼ばれる里があった。
それら郷のうち12を有するのが、国内最大規模の八上郡だ。
八上郡を語るのに、良質の湯が豊富に湧く温泉郷は欠かせない。
その主な効能はリウマチ・痔疾・神経通・皮膚病などは言うに及ばず、特筆すべきは、肌にもたらす効能だ。
その湯は、しっとりと張りのある透明な肌を作りあげた。
この八上郡に、評判の美しい女人がいた。名を八上比売と言う。
美肌効果の高い温泉の恩恵を存分に受けて育った八上比売の肌は、すいつくように滑らかだった。
愁いを帯びた目元は優しく儚で、その瞳の奥を覗き込みたくなる。
ふっくらと艶のある唇に視線を写せば、己の唇を重ねたい衝動にかられる。
静かな微笑みを向けられたなら、心は喜びに満ち、その可憐な笑みを我が物にしたいと望む。
魅了されない男が、果たしてこの世にいるのだろうか。
八上比売の存在は、近隣の国にも聞こえていた。
八上は、今日も膝にウサ吉を抱き、その白い背を撫でていた。
ウサ吉とは、比売が可愛がっている雄の白うさぎの名だ。随分とお調子者のうさぎだった。
献上された菓子を時々つまみ食い、側仕えの侍女から咎められては
「ヒメ、毒見はアッシが済ませやした。安心してお召し上がりくだせぃ」
などど、調子のいいことを言う。
さらに𠮟りつけようとする侍女を八上は目で制し、笑いを堪えるように言ったものだ。
「それは安心なことよ。ウサ吉には助けられるのう」
ウサ吉もまた、美しくおっとりとした八上が大好きだった。
青空と心地よい風に誘われて、八上はウサ吉を腕に抱き、庭を望む広い濡れ縁に出ていた。
白い柔らかな毛並みを撫でながら、庭に設けられた広い池を眺めていた。
池の中央には形の良い岩が配置されていて、その一つの岩の上で亀が甲羅干しをしていた。
池から目を上げると、遠方に緑の山々が連なっており、まるで庭の景観の一部のようだった。
八上は、側仕えの侍女が話す、隠岐の島の石楠花の花の美しさに思いを巡らせていた。
侍女が言うには、因幡の白兎海岸から、海を挟んで望める隠岐の島のみに生息するオキシャクナゲの花は、たいそう可憐で美しいらしい。
この季節には島の山の稜線は、一面がオキシャクナゲの薄桃色に彩られ、それは見事な眺めだそうだ。
「我が庭で、その花を愛でたいものよのぅ」
八上のうっとりした呟きが、ウサ吉に隠岐の島行きを思い付かせた。
オキシャクナゲの種なり根なりを手に入れて持ち帰り、八上を喜ばせたい。
隣国、出雲の国。
出雲の国は、天之冬衣神が治めていた。
この天之冬衣神には、年頃の息子が大勢いた。
末子は大穴牟遅神で、後の大国主命である。
この神は成長に伴って名を変えたが、後の世で最も知られた大国主命の呼び名で、この小説では統一する。
大国主命には、八十神と総称される80人の兄がいた。
この80人の兄らは、末子の大国主命を疎んじた。
末子ゆえに、父神が可愛がっていこともあった。
切れ長の目に整った鼻の見栄え良い顔立ちと、温和な性格ゆえに、神殿に仕える侍女たちから持て囃されていたこともあった。
何にも増して気に食わぬのは、大国主の母親が天上界の高天原生まれであることだ。
地上生まれの神の中には、天上界生まれの神に、少なからず引け目を感じる者がいる。
神の社会もまた、階級社会であった。出自の持つ意味合いは大きい。
兄弟の中では末子ゆえに使い走りであっても、将来的には兄を超えて支配者となることもあり得た。
この出雲の国にも、隣国の因幡の八上比売の存在は伝わっていた。
評判の美しい八上を迎えることができれば、国力にもなり得る。と、天之冬衣神は考えた。
幸い年頃の息子が余るほどいる。
「息子らよ。他国の若い者に先を越されるでないぞ。因幡の国へ行き、八上比売を娶ってみせよ」
出雲の国の若神らは、我こそはと浮足立った。
己が美しい八上比売を妻に迎えてみせようぞ。
兄である80人の八十神と末子の大国主命は、父神の期待を背に因幡の国へと旅立った。
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