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伊邪那美命 黄泉の国での再会と別れ
神々の居室となる神殿。神殿を繋ぐ回廊。回廊に沿って一定間隔で立ち並ぶ円柱。
それら全ては丁寧に磨き上げられた黒御影石が使われていた。
漆黒の闇を演出する黒御影石の表面には、大小さまざまな水晶が規則性もなく埋め込まれていた。
幾千もの水晶が強く弱くちらちらと漆黒に瞬く様は、高天原を望む天空の暮夜のようだ。
ここ黄泉の国では命を落とした神々が暮らす。
天上の高天原から地上へ降り、地の底にある黄泉の国へ居を移した伊邪那美命もまた、夜空を連想させるこの空間に癒されている。
あたかも、体が宙に浮いているかのような解放感を受けた。
この時代、人間はまだ存在していない。よって、ここに住まう死後の人間もいない。
神々の下僕として共に暮らすのは、様々な種類の妖怪や化け物、いわゆる魑魅魍魎たちである。黄泉の国からこっそりと抜け出した妖怪や鬼は、後の世の人間界でも悪さをする。
伊邪那美命は、居室である神殿で日課としている瞑想を始めようとした。
遠くの静寂の中に普段とは異なる気配を感じた。
声が聞こえる。
黄泉の国で交わされる心の声ではなく、肉体から発せられる声だ。
少しずつ近づく声は、現世に残っているはずの夫・伊邪那岐命の声だ。
かつての夫が生あるまま、黄泉の国へやってきた。
現世で暮らす神は黄泉の国で暮らす神のようには、夜目がきかない。
全てが暗闇に感じる。夜空のように美しい回廊さえ、暗闇としか認識できない。
かつての夫・伊邪那岐は翳した炎を掲げ持ち、目を凝らしながら大声で妻の名を呼ばわっていた。
「愛する伊邪那美命よ。あなたなしでは生きてゆけぬ。我と共に帰ろうぞ」
伊邪那美は伊邪那岐と共に、天上界の天浮橋に立ち、下界に広がる混沌とした海に天沼矛降ろし、掻き混ぜた。引き上げた矛からしたたる潮で、最初の島を造った。
その島に降り立った夫婦は、次々と国生みをした。
むろん、夫婦の愛の証となる子も、沢山授かった。
「我が妻よ。どこにいるのだ。姿をみせよ」
大声で呼ばわる声は、伊邪那美が居室とする神殿に近づいてきた。
妻は、耳に馴染んだ夫の声に、嬉しさと懐かしさ感じた。
夫は、今でもワタクシを愛し、必要としている。
夫の愛は一途だった。
だが、その強引な愛には、思いやりや気遣いに欠ける面があったことは、否めない。
これらを小さなこと、過ぎたこと、と忘れられるなら、幸せであろう。
残念ながら、小さなつかえとして確たる記憶に留めてしまうのは、神であれ人間で、妻の宿命なのかもしれない。
夫婦にとっての初子が流れた時のことだった。夫のつぶやきは、暗に妻を非難していた。
「妻の誘いで身体を重ねるは、道理に反するようだ」
上位の神々の言を受けたのであろう。
それに反論せよとまでは言わぬが、心にしまっていて欲しかった。
ワタクシの前で、言葉にせずともよかろう。
ワタクシにも意地がある。
体を重ねるは、夫の誘いを受けてからとした。
火の神である迦具土神の出産は、結果的にワタクシの命を奪った。
体内から生まれ出ようとする赤子は炎で覆われていた。
ワタクシは大やけどを負い、命尽きた。
命と引き換えの出産となったが、赤子に罪はなかろう。
しかし、夫は怒りに任せて赤子を殺した。
「妻を死に至らしめた者は赤子であろうと、許さぬ」
ワタクシが命と引き換えにこの世に送り出した子を、殺してしまったのだ。
これらの記憶は隅に追いやらねばならぬ。
それこそ命がけで夫は会いにきたのだ。妻の死を受け入れらえずに追いすがる夫は、やはり愛おしい。
久方ぶりに、夫の腕に抱かれ、そのぬくもりに包まれようか。
もしくは、現世に戻ろうか。
共に暮らし、赤子造りもよかろう。
伊邪那美の心の声のつぶやきは続く。
だが、ここで黄泉の国の食事について触れておく必要がある。
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