死者

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死者

病院の売店。 売店でお菓子の棚を見ながら、ヤマは少年に問うてみる。 「なあ、  死んだ人の記憶を読む技術があるんだって。  どう思う?」 「え?」 どういうことかと。 顔を上げると。 「これで良いか?」 少年がずっと見ていたグミの袋を取って、レジへ行く。 「ありがとう」 売店の前の壁に並んで寄りかかって、グミを口に放り込む。 酸っぱくてザラザラする。 刑事はガムを噛んでいた。 「さっきの話さ」 「うん」 2人して。 口をもぐもぐさせながら。 「あの若い刑事の人」 「サイキ?」 「うん、  あの人がやるなら良いかもね」 「そっか」 言ったのは、ただそれだけ。 だから大したことは言ってない。 また、10時間近くかかるだろう記憶界析に潜り始めた、すぐ下の後輩の背中を見る。 「ヤマ、ボーッとすんな!  鑑識に結果聞きに行ってこい!  そのあと解剖の方も!」 「はい!」 自分にできるのは、せいぜい後輩の掴んだ真相の、証拠固めくらいだ。 今回はイクノの隣に、もうひとり補佐が付いている。 ナナセという、医療界析をしている研究員だ。 サイキよりさらに若いが、経験はサイキの上をいくという。 「ご家族には言わないでいただきたいですが、  界析にあたって、  一時的に脳を生き返らせました」 ぞくりとする。 「事故で損傷していましたし、  亡くなられて時間も経っていたので、  反応を示した部位はわずかでした。  それでも記憶に関わる幾つかの部位は、  信号に反応しました」 死んでも。 細胞のいくらかは生きている。 「写せた記憶は僅かですし、  変質して混沌としています。  読むにあたって地図を作成しました」 画面に3次元のモデルが映し出される。 「色のない部分は欠落。  虚無です。  レッドゾーンは変質が激しく、  イエロー、グリーンの順に変質は減り、  ブルーゾーンが最も整合性の保たれる記憶。  上に行くほど意識的で、  下が本能的なのは通常と変わりません」 「穴ぼこだな」 スイスチーズ状態だ。 むしろ穴の方が大きい。 ボロボロの、触れれば崩れそうな。 心もとないチーズに近づいていく。 隣の画面に、混沌とした画像が流れ始める。 「表層から深層へ、  ブルーゾーンからイエローゾーンまでを、  飛び石を踏むように読みます。  ずっと見ていると、  いつの間にかレッドまで移動して、  虚無に落ちます。  なので私は画像を見ません。  ゾーン分けだけ見て警告するので、  移動の指示をしてください」 「分かった。  じゃあ、始めます」 振り返ると、ナナセはコクリと頷く。 イクノも、真っ青な唇を震わせながら頷いた。 死者の記憶を読む。 そんなことをしていいのだろうかと。 脳裏ではずっと警鐘が鳴っている。 「まず中心付近のブルーゾーンを、  深度3くらいで」 「はい」 潜っていく。 身体が痛む。 目が開かない。 夜明け前だ。 薄暗い。 「これブルー?」 「ブルーからグリーンです」 すでに劣化している。 ベッドの中にいる。 行かなければ。 起きなきゃいけないのに身体が動かない。 「これは」 目の前は闇。 いや霧か。 強い光に目が眩んだかのような。 砂嵐のような。 「最期の日の、  朝の記憶です」 死んだのだ。 ぐらりと揺らされる。 このまま見ていったら、死ぬ瞬間を見ることになる。 「病院のベッドか」 「はい」 淡々と答えるナナセに引っ張られて、冷静さを取り戻す。 「この2日前の記憶は」 「カレンダーは曖昧ですが、  おおよそではここです」 場面が切り替わる。 議員の事務所にいる。 慌ただしく人が出入りし、ひっきりなしに電話が鳴っている。 自分も電話をとって対応していた。 相手はユウキ議員の支持者のひとりらしい。 「ご心配には及びません」 精一杯にこやかに対応する。 顔が見えないのでより明るい声で。 電話を切ると、どっと疲れる。 「コサカイさん、  裏で休んできて良いですよ?  何かあったら呼ぶので」 「ありがとう」 トイレで丁寧に手を洗い、アルコールで除菌する。 未開封のミネラルウォーターを開けて、一口飲む。 息を吐く。 状況はどんどん悪くなっている。 立件は免れないだろう。 どこまで踏み込んでくるか。 ユウキ先生はどこまで… コンコンと。 ノックする音がして。 「はい」 扉を。 開けると。 目の前に。 先生が。 「レッドゾーンです」 自分の腹に。 腹にナイフが刺さっていた。 「少し良いかな?」 抜くと真っ赤な血が噴き出した。 「サイキさん、レッドです。  移動の指示を!」 地面に転がった。 血溜まりが広がる。 誰かが見下ろしている。 「先生?」 先生がなぜか。 自分のスマホを拾って。 懐にしまっていた。 「引き戻しますよ!」 画像が途切れる。 「サイキさん!」 肩を揺さぶられる。 「ごめん、潜りすぎた。  劣化してた」 実際とは違う。 「もう一度」 数度。 レッドゾーンを踏み外して虚無へ落ちることを繰り返し、ナナセは気づいた。 「イクノさん、  サイキさんっていつも、  こういう潜り方なんですか?」 「え?こういう?」 「どこまでも深く潜っていく」 「そうですね。  毎回私が手伝ってるわけじゃないけど、  補助に入るときは大体こんな感じ」 もちろんいつもは虚無には落ちない。 どこまでも深みに潜るだけだ。 「だからか」 「何が?」 「待って」 マイクに向かう。 「サイキさん、  レッドゾーンです…  戻しますよ!」 サイキの返事を待たずに、ブルーゾーンまで座標を戻す。 「ごめん、ありがとう。  もう一度、今度は深度4で、  30分前のグリーンのとこから」 「はい」 間髪おかずにまた潜っていく。 「何か有力な証拠は掴めそうですか?」 画像処理はイクノに任せている。 「今のところはまだ。  やっぱりレッドゾーンが多くて、  辻褄が合わないことが多いですね。  それに今回は、  何を見つければ良いかも分からないので、  もう3時間くらいは手探りだと思います」 潜り始めてまだ4時間と少し。 的を絞るには情報が足りない。 サイキの潜り方は、犯罪捜査向きではない。 彼は記憶を読んでいるのではない。 そこにいて、感じている。 だから簡単に虚無まで落ちる。 何度も何度も落ちる。 そうして、界析対象の思考を自分に写し取っている。 写し取るうちに、界析対象の考え方や癖が分かってくる。 だから、全部読むよりも早く証拠を見つけることができるんだろう。 この人はこれまで、どれだけの人を写した? どれほどの人の人生を、思考を体験したんだ。 どれほどの犯罪者の記憶をトレースし、どれほどの被害者の記憶を追体験したんだ。 「レッドゾーンです」 やっぱり引き返さない。 そのまま行けばまた落ちる。 「戻します」 座標をブルーまで戻す。 サイキが延々と暗闇に目を凝らす間。 植え込みで見つかったスマホからは、2種類の指紋が出た。 「持ち主と、それ以外ですね」 「もう一人の指紋が誰なのか探します。  他には?」 「特には。  どうもこまめに除菌されていたようで、  綺麗なんですよね」 「除菌?」 「被害者の他の持ち物、  手帳とかペンとかも、  除菌シートでよく拭かれています。  潔癖な人だったんでしょう」 「なるほど…」 何がどうというわけじゃないが、班長に報告する。 「潔癖な」 「はい」 「妻も話していました」 ミヤトさんが応じる。 「持ち物はこまめに除菌するし、  手洗いも頻繁だったと。  特に他の人が触ったところは、  念入りに除菌していたそうです」 「じゃあ事務所内でも、  みんな知っていたのかな」 「どうでしょう。  周りに迷惑かけないように、  常に気を遣っていたとも言っていたので、  人に見えないところでしていたかも」 「うーん」 なにがどうというわけじゃないけど。 「班長、残念ですが、  指紋のもう一人は、  クチナシ男じゃありませんでした」 クチナシ男は手袋をしていた。 「誰かがスマホに触った…  何のために?」 「最後の通信は、  事件の時の通話だろ。  その前は?」 「妻にメールを送ってますね」 「USB…」 まだ見つかっていない。 やはりそれを見つけないことには。 「ミヤト、  もう一度コサカイさんの自宅に行って、  USBがないか探して来てくれ」 「はい」 「イワイさんは、  ユウキ議員の事務所の職員から、  指紋取ってきてください。  ヤマも一緒に行って手伝ってくれ。  そのついでを装ってUSBの捜索」 「はい」 「班長は?」 「サイキの界析を待って動く」 ミヤトはコサカイのマンションにて、彼のUSBを入念に捜索する。 もう何度目だろうか。 おそらく探せる場所は全て探した。 これ以上見ても、何も出てこないのだろう。 ユウキ議員の事務所にはイワイさんとヤマが行っている。 あちらで見つかることを願うばかりだ。 「もういいですか」 ミヤトの手が止まったのを見て、妻が声をかける。 「すみません、何度も」 「ここにはないと思います」 ミヤトの端末が鳴る。 「少し出ますね」 断って出ると。 「はい、はい?」 妻を振り返る。 尋常でない気配を察して立ち上がる。 すぐに電話を切る。 「コサカイさん…  中央庁が、  ユウキ議員を逮捕しました」 「何で急に」 中央はまじめに捜査する気もなかったはずだ。 「どう動いているのか分かりません。  ひとまずお子さんも、  私と一緒に来ていただけますか。  状況によっては警護が必要です」 「どこへ行くんです」 分からない。 「まずは我々の署へ。  中央に行くかどうかは、  状況を見極めないと」 同じくしてヤマも、予想外の出来事に見舞われていた。 「あ、班長?  どうなってるんですか?  なんか指紋提出にも渋って困ってたとこに、  中央の奴らが令状持って割り込んできて、  議員先生連れてっちゃいましたよ…  いいんすか…?」 「いい」 即答だった。 「班長?」 「いいから、戻ってこい」 最後の戦いが始まる。 慌てて戻ってきたヤマは、ミヤトさんがコサカイ親子を連れてきているのを見つけた。 「ミヤトさん何してんの?」 「急いで署に連れてくるよう、  班長の指示が」 そこへ。 ナナセが顔を出す。 「サイキ界析官の代理を務めます、  ナナセといいます」 界析と言う言葉に。 母親も。 少年も。 立ち上がった。 「全ての事実をお話しするのは、  まだもう少し先です」 少年を見つめる。 その揺るぎない瞳を、少年も見つめる。 「あなたに、  記憶探索を受けていただきたい。  あなたの記憶が必要です」 「僕も、そんな気がしてた」 母親が、顔を覆う。 そんな気はしていた。 でも、確信を持ちたくなかった。 暗闇に、放り投げて。 気づかないふりをしたかった。 それはできないのだと思い知る。 その頃、取調室では。 サイキが。 ユウキ議員を出迎えていた。 「班長!  なんで議員がここに?  中央に連れてかれたんじゃ」 隣では班長が。 「ここへ移送してもらっただけだ」 硬い表情をしていた。 「何で中央が協力を」 「取引した。  少なくとも議員を有罪にできるなら、  協力すると」 サイキの界析結果を見て。 決めたことだ。 取調室で、サイキは挨拶していた。 「先日はどうも」 「誰だったかな」 「界析官をしているサイキです」 「ああ、界析官の」 笑う。 笑い返す。 不気味に。 「あなたには、  殺人の計画と、  その一部実行という容疑がかかっています。  心当たりは?」 「ないよ。  殺人?」 「あなたは自分の秘書である、  コサカイさんを殺したんでしょう。  計画的に。  献金疑惑から逃れるために」 「何を言っているのか…」 「界析すれば分かるんですよ?  でも、  自供した方が手間が省けるので、  そうしていただきたい」 「令状は取れないから自供に頼ろうと?  浅はかだな」 「確かに令状はないですが、  あなたの罪は暴けますよ」 「やってみなよ。  界析できない界析官が」 サイキは椅子に座り直した。 「あなたはコサカイさんの携帯を、  どこかで借りたことがありますか?」 「携帯?」 「携帯に持ち主以外の指紋が残っていました。  あなたですか?」 「知らないが、  そうかもしれないな。  かかってきた電話を代わったり、  調べ物をするのに借りることもある」 「一番最近ではいつでしたか?」 「覚えていないよ」 「思い出してください」 「…彼が事故にあう少し前に借りた」 そう言うだろうと思った。 「何のために」 「なんてことはない。  ネットニュースが気になって、  画面を見ただけだ。  場合によっては抗議しなきゃならん」 「どこのニュースです」 「SNSの適当な記事だよ。  覚えていない。  文面も似たり寄ったりで」 「そうですか…」 「それがどうした」 「あなたの今の話は、  全て虚偽ですね」 記憶界析を侮るな。 人は。 死者とも語り合うことができるのだと。 昔、本で読んだ。 明るい室内。 白いシーツ。 ベッド。 無数のモニター。 白衣の界析官。 ベッドに横になり、計器に繋がれた少年に、ベッドサイドで、ナナセが語りかける。 「お父さんは、どんな人?」 「よくわからない、  あまり話さない」 「最後にあったのは?」 「月曜日。  だから死ぬ前の日」 遺影がチラリと横切る。 葬式の記憶が蘇り。 「大丈夫。  私の声を聞いて」 波が引いていく。 自我の力は強い。 モニターを確認しながら。 「何を話した?」 月曜の記憶に戻る。 「黙って朝ごはんを食べて、  行ってきますってだけ」 コーヒーを飲む秘書と。 パンを齧る息子。 黙っている。 苦いコーヒーの香りと。 甘い食パンの味がする。 「その時の様子は?」 「いつもと変わりないと思う。  けど分からない。  いつも、  緊張してたり、  イライラしてたりするのが普通だから」 「そう。  その日の夜は?」 「会えなかった。  帰らなかったみたいで、  次の日の朝もいなかった」 何かが一瞬横切る。 それを追いかける。 光だった。 「その日の夜は、  眠れた?」 「いや、  この数週間、寝つきはずっと悪かった」 報道されるユウキ議員の姿。 その近くに父の姿も映り込む。 「夜はどうしていた?」 「眠れなくて、  スマホを見てたり」 「自分の部屋で?」 「うん。  時々水を飲みにキッチンへ行った」 「その日も?」 「うん」 「何時ごろまで起きていた?」 「いつも3時とか4時とか。  その日は特に遅かった」 点滅する光がある。 青い光だった。 「水を飲みに行って、  何か見つけなかった?」 「何かって?」 光の点滅がきつい。 目が痛くなる。 「何か、気づいたことはない?」 誘導しないように。 偽記憶形成しないように。 「ああ、そうだ」 「うん」 「電気つけるのが面倒で、  いつも廊下と冷蔵庫の明かりで、  水を飲むんだけど」 「うん」 「暗がりの中で、  いきなり音がして」 バイブ音と。 「光が点滅して」 青い光だった。 「母さんの携帯で」 テーブルに置きっぱなしだった。 「父さんからのメッセージが来てた」 USB。 持ってきてくれって。 「それで?」 「母さんを起こそうかとも思ったけど、  最近疲れてるし、  起こしたくなくて。  僕はどうせ眠れないから」 デスクの引き出しに入っていたのを。 「ポケットに入れて、  届けに行った」 「行ったの?」 「行った」 「届けたの」 「………」 モニターが揺らぐ。 この先は、きつく封印されている。 「家を出た時は、  どんな格好で?」 ゆっくり。 「上下スエットから、  下だけジーンズに履き替えて、  コートを着ていった」 「どんなコート?」 「いつも着てる、  グレーの」 少年が脱いで掛けたコートを振り返る。 グレーの。 「靴は?」 「スニーカー。  通学用の」 「歩いて行ったの?」 「歩ける距離だったから」 「どのくらいかかった?」 「30分くらい?」 「どこまでで?」 「事務所まで」 事務所の前に立つ。 明るい。 昼間だ。 それは違う日の記憶。 「ついたのは何時ごろ?」 事務所の風景が消える。 携帯を見下ろす。 「4時45分」 「周りには、  何が見えていた?」 事務所に向かう道だ。 明るくなりかけていた。 人通りの多い。 大きな交差点には。 早朝出勤の人に。 これから帰る人に。 「事務所の前の交差点」 「大きな交差点」 ポケットに。 USBを握りしめていた。 「他には何が?」 景色が。 フリーズする。 「何?」 「何を見た?」 「何を?」 出てこない。 固く。 閉ざされて。 「では、  何が聞こえた?」 景色が消える。 暗闇の中。 「信号の音」 規則正しい電子音。 「人の足音」 忙しない。 足早の音。 硬い靴底。 擦れるゴム底。 走る音。 「静かな息遣い」 歩く。 早足の。 走る。 息遣い。 けいゆう! 呼ばれた。 顔を上げると。 信号待ちする肩の隙間。 交差点の。 真ん中に。 「父さん!」 叫んだ。 直後。 「とうさん…?」 見えなくなった。 「ケイユウ…」 母親は、隣の部屋で、ベッドに横たわり、父を呼ぶ息子を見ていた。 「知っていたのですか…?」 班長が、静かに問う。 「嫌な予感はしていました。  事故の連絡が来た時、  私のスマホがリビングに置きっぱなしで、  夫からの連絡が入っていて、  ケイユウが家にいなくて」 少年は空に手を伸ばす。 「とうさん…!」 叫ぶ。 いくら呼んでも。 姿が見えない。 モニターには。 ぐちゃぐちゃと色が混じる。 父の記憶が溢れ出す。 笑いかけてくれたこと。 一緒にゲームをしたこと。 褒められたこと。 叱られたこと。 もう二度と。 見ることができない。 息を吸い込む。 「父さん…!」 吸い込む。 吸い込む。 「大丈夫、  私の声を聞いて」 伸ばした腕に。 そっと触れる。 「大丈夫。  息を吐いて。  声を聞いて」 息を。 吐く。 人々の肩越しに見た。 交差点。 その中心。 真っ赤な色。 父さん。 父さん。 見えない。 見たくない。 黒い車がその前を塞ぐ。 扉が開いて。 降りてきた男が。 何かを拾って。 目があった。 「それは知ってる人?」 「初めて見た」 睨んでいた。 怖くて。 男が。 唇に。 人差し指を当てたのを見て。 くるりと向きを変えて。 走り出していた。 一方。 サイキはユウキ議員を真正面から嘘つき呼ばわりし、正々堂々と喧嘩を売っていた。 「あなたは、  自分の秘書がやや潔癖なところがあるのは、  知っていましたか?」 常に整えられた身なり。 丁寧な手洗い。 アルコールスプレーと除菌シートも持っていたたか。 答える必要はない。 「では、  彼が自分の持ち物に他人が触れたら、  必ず除菌していたことは?」 一度、スマホを使い捨てのメガネ拭きで拭いているのを見たことがあったが。 答える必要はない。 「彼の携帯に、  他人の指紋が残っているということは、  彼は誰かに触られたことに気づいていない。  知らない間に使われていたということです」 つまり。 「彼に借りたというのは嘘です」 彼の携帯で。 「何をしたんです…?」 言うわけがない。 「言わなくても良いですよ。  私が言います」 目を閉じると。 彼になる。 「金をもらう代わりに、  記憶界析の法案を通し、  新しい界析システムの導入を確実にする。  そういう取引があったんでしょう」 言うわけがない。 「彼は反対した。  反対と言葉にはしなくても、  あなたは反意を感じ取った。  内部告発の危険も感じたのでは?」 言うわけがない。 「彼が記憶を消すのに応じるわけがない。  殺すしかない。  だから、  彼のスマホを使って、  彼のふりをして妻を呼び出し、  妻を使って脅して、  事故に見せかけて殺す」 でも。 何故かそうならなかった。 「ただ、  妻ではなく息子が来た」 同じことだ。 脅して殺す。 それだけだ。 息子が来ているぞ。 交差点で車に撥ねられて死ぬ。 多くの歩行者を巻き添えにして。 「彼は事務所を飛び出して、  交差点に向かった」 ハッタリだ。 でも。 そうならなかった。 交差点の向こうに。 「けいゆう!」 走り出して。 すぐに気づいた。 狙いは息子じゃない。 自分だ。 全てユウキ議員の策略だ。 身体の折れる音がした。 目を。 開ける。 「呼び出す口実にUSBを使ったのは、  そこに告発のためのデータが、  全て入っていると踏んで、  それを妻から回収する必要もあったから」 仕事のデータは全て高セキュリティのクラウドを介して、どこでも使えるようにしている。 なのに彼がUSBを持ち歩いているのを見て、不審に思ったのだ。 「ただ、  息子はなぜかその場から逃げ出し、  接触することができなかった。  そして、  息子はその場にいたこと自体を忘れている」 言う必要もないだろう。 下手に息子に接触し、USBの存在が明るみに出れば、証拠になってしまう。 「USBを見つけたかったが、  見つからず闇の中ならそれでも良かった。  妻は下手に動けないことを知っていたし、  それでいいと油断したのでしょう」 そして。 クチナシ男と秘書に。 すべての罪を被せて幕引き。 「皮肉ですね。  記憶界析を推進するユウキ議員が、  そんなことで真実を隠せると思うなんて」 記憶解析は、全てを詳らかにする。 「あなたは記憶界析を侮った。  自分は支配する側の、  界析など受けない、  特権階級だと思っているのでしょう」 だから自分は魔女に記憶を消させなかった。 「大間違いです。  あなたは、  自分も含め関わったすべての人間の、  全ての記憶を消すべきだった。  そうしない限り、  真実を闇に葬ることなどできないんです。  気に入らない奴を殺せばすむなんて、  暴力で支配できる時代は終わったんです」 父がひかれた時。 その場にいたんだ。 「どうして忘れていたんだろう」 装置を外しながら。 少年は。 呆然と。 「お父さんのこと、  大切だからに決まってるよ」 ナナセは。 しっかりとした口調で答える。 「大切な人が傷つく場面なんて、  見たいわけない。  あなたの心が、  そう簡単に受け入れられるわけないよ」 「そうか…」 ミヤトに付き添われて。 母が、部屋に入ってきた。 少年は、立ち上がる。 「ごめんね」 母はなぜか謝るのを。 黙って聞いた。 何について謝っているのかも分からない。 でも。 何も否定せずに聞いた。 「あの、刑事さん」 少年は。 脱いだコートのポケットを探る。 「それ…」 「やっぱり、  ケイユウが持ってたの」 「うん」 ずっとポケットに入っていた。 忘れていた。 USBを、差し出した。 「お預かりします」 ミヤトは。 それを固く握りしめて。 部屋を出て行く。 「人間だけが、  死んだ者と、  語り合うことができるそうです」 ユウキ議員は、ようやくその顔を歪めた。 サイキは、ようやく動いたそれを笑う。 立ち上がる。 ずっと背後でパソコンを操作していたイワイさんが、画面を向ける。 「彼が残したものを、  受け取りました」 開発業者との会合。 大臣との会合。 使った店。 収支記録。 何をどう経由したか。 口座番号。 取引の時刻。 代理で手続きを行った者の名前。 事細かに記されている。 「これは…」 やっと口を開いた。 「あなたと防衛大臣が受け取った、  汚い金のことですね」 ようやく。 全てが。 詳らかになった。
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