61人が本棚に入れています
本棚に追加
メイズハウス
山のてっぺんまで行けば反対側に下りる道があるかと思ったけれど、現実は甘くなかった。この道はメイズハウスと麓をつなぐだけの一本道で、メイズハウスに到着したところで行き止まりになっていたのだ。
「中に隠れよう」
ウーさんの提案に、わたしは頷くしかなかった。ふたり乗りで坂道を上ってきたせいで、もう足がパンパンだ。とても逃げ続けられない。
メイズハウスはレンガの塀に囲まれ、立派な鉄の門を備えていた。だけど近づいてよく見れば、レンガはヒビ割れだらけ。門も真っ赤にサビついて、壊れた小さな通用門が開けっ放しになっている。
わたしは自転車を押しながら、通用門をくぐってメイズハウスの敷地に踏みこんだ。
「あっ」
そこは、間違いなくわたしが夢で何度も訪れた屋敷だった。そして同時に、夢の中とはまるで違う場所でもあった。
生垣の迷路。花壇のある庭に、東屋。そして黒レンガのお屋敷……。
そのどれもが、無残に荒れ果てていた。
生垣は跡形もなくなって、ただ、迷路の形をしたコンクリートの土台だけが残されている。その先に広がる庭は花でいっぱいどころか、草の一本すらも生えていなかった。からからに乾いて、ひび割れた土があるだけだ。メイズさんがお茶をしていた東屋は、くずれた屋根に潰されてしまっている。
お屋敷そのものもひどい状態だった。全体が土埃で汚れて、白っぽくくすんで見える。窓ガラスもクモの巣に覆われてしまっていて、中の様子はまったくわからない。
わたしとウーさんは、隠れる場所を探して屋敷の裏に回った。こうしている間にも、真珠ちゃんたちが追いついてくるんじゃないかと思うと気が気でない。
屋敷の裏には、ひょろひょろに痩せて立ち枯れた植木がまばらに生えていた。
真っ黒に汚れた板で作られた、物置小屋のようなものがあったので、その裏手に自転車を隠す。すると、塀の一部が崩れているところが目にとまった。
ここから逃げられるんじゃないかと思って覗きこんだわたしは、危うくギャッと叫びそうになった。
屋敷の裏手は、崖だった。ほとんど垂直の断崖絶壁の下には川が流れていて、流れが白く渦を巻いている。メイズハウスは、崖っぷちに建てられたお屋敷だったのだ。
わたしの肩ごしに崖下を見たウーさんが、うへっと声をもらした。
「なに考えて、こんな変な家建てたんだろ。私だったら絶対住みたくないな」
「だよね。……あ、でもさ、花壇に花が咲いてるところは、けっこうきれいだったよ。生垣だってあんなんじゃなくて、ちゃんと迷路になってて」
「は? ……なにそれ。昔の写真、見たことあるの?」
「写真っていうか……」
と、言いかけたところで、ギギギーッというけたたましいブレーキ音が表のほうから聞こえてきた。
真珠ちゃんたちだ!
ウーさんは「しっ」と小声でわたしを黙らせると、ネコ科の獣みたいに音のない動きで、屋敷の裏口らしきドアに近づいた。ノブを握って軽く引っぱると、キューッと悲しそうな音をたててドアが開く。
ウーさんはすばやくわたしを中に押しこむと、自分もするりとドアをくぐって、中から閂をかけた。ほとんど同時に、ザクザクザクと運動靴が土を蹴る音が近づいてくる。
「誰もいないよ」
「ちゃんと探しなよ、若菜。どこかそのへんに隠れてるかもしれないじゃん」
「ええー……。ヤダぁ。汚い。それにここ、幽霊が出るってお姉ちゃんが……」
「バカ。幽霊と真珠ちゃんと、どっちが怖いの。それにメイズさんが出るならいいじゃん、私たちを助けてくれる、いい幽霊なんだから」
「……」
若菜ちゃんと絵美ちゃんだ。
「メイズさんメイズさん、ウーさんと深月ちゃんはどこですか。……こっちだ。やっぱり、屋敷の中に入ったんだよ!」
足音がズカズカ近づいてきたかと思うと、裏口のドアが乱暴に引っぱられて大きな音をたてた。
ドアにくっついて外の様子をうかがっていたわたしとウーさんは、思わず半歩あとずさった。お互いに顔を見合わせて、シーっと人さし指をたてる。ドアの向こうからは、絵美ちゃんのイライラした声が聞こえてきた。
「もう。開かない! 若菜、そのへんからブロック拾ってきて!」
「ブロック?」
「こんだけボロいんだもん。ちょっとくらい壊したって同じでしょ!」
言いながら絵美ちゃんがドアをガタガタゆすると、それだけで閂がぐらつきはじめた。木製のドアに金属の閂がネジ留めされているのだけれど、その土台の木の部分が、もう古くなってボロボロに腐っているのだ。
ウーさんがわたしの肩を叩き、身ぶりで「ここを離れよう」と伝えてきた。わたしたちは、そっと音を立てないようにしながら、屋敷の奥へと進んでいった。
夏の太陽にあぶられている外と違って、屋敷の中はひんやりとしている。だけど埃とカビのにおいで居心地は最悪だ。天井や柱にはクモの巣がびっしり貼りつき、壁は黒や緑のカビが繁殖していて、とても触る気にならない。床に敷かれた絨毯もどす黒く変色し、踏むと水気を含んだイヤな音がした。
「メイズさん、メイズさん……」
わたしが腕時計で行く先を占おうとすると、横からウーさんがさっと手を伸ばして、時計の文字盤を押さえてしまった。
「やめな、そんなの」
「でも……」
「今、こうして追いつめられてるのは、その占いのせいだって思わない?」
……正直なところ、そう感じなくもなかった。
メイズさんは誰の質問にも、正しい答えを返してくれるはず。だけど今みたいに、わたしと真珠ちゃんたち、双方の願いが対立しているときはどうなるんだろう。この前メイズさんが言っていたように、「対等な勝負」になるのか……それとも……。
「行こう。どこか、目立たないところから外に出ないと」
ウーさんがわたしの手を引いて歩き出す。
厨房らしい場所を抜け、暗い廊下を通って大広間へ。汚れきった窓ガラスからまだらにさしこむ光が、床の上に影絵みたいな模様を描きだしている。
ひとつひとつ窓を確かめてみたけれど、それらはどれも、一定以上は大きく開かないように作られていた。縦になっても横になっても、どうしても頭が通らない。
「……哭爸」
ウーさんは舌打ちしながら、台湾の言葉でなにかつぶやいた。……いい意味の言葉じゃないのは、なんとなくわかった。
窓がだめなら、正面玄関から外に出るしかない。わたしたちは玄関ホールにむかった。
ホールには、二階へ上がるための大きな階段がある。
その前を通りすぎる瞬間、急にぞくぞくっと身体が震えた。なぜかそのあたりだけ、空気が冷えきっている。まるで二階だけガンガンにクーラーを効かせていて、その冷気がもれてきているみたいだった。
玄関の扉には、裏口と違ってカギがかかっていた。ウーさんは玄関脇にある明かり取りの窓から、慎重に外の様子をうかがうと、わたしを手招きする。
「……今なら誰もいない。私が開けるから、あんた、先に出て。出たら一直線に門までダッシュして、森に逃げこむ。OK?」
「オ、オーケー」
わたしは、スプリングで首が動くおもちゃみたいにカクカクと頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!