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「っ!」
ウーさんが、熱いものにでも触れたみたいに手を引っこめる。
その、デジタル式腕時計をはめた手首のあたりから、赤いものがつーっと流れ落ちるのが見えた。
「血ぃ出てる!」
「えっ!?」
若菜ちゃんが飛びのく。絵美ちゃんは汚いものでも扱うみたいに、ウーさんの身体を木箱のほうに突き飛ばした。
転倒と同時に、ウーさんの手がお札に触れる。黄色い紙に、赤い筋がべったりと残った。
同時に、それまで一ミリの隙間もなく木箱にぴったりとくっついていたお札が、あっけなく剥がれる。
その直後、木箱をがんじがらめにしていた鎖が、手も触れていないのに一斉に外れた。鎖はまるで生き物みたいに床の上を跳ねまわり、じゃらじゃらとけたたましい音をたてる。その場の誰もが、感電したみたいに動けなくなった。
鎖の支えを失って、固定されていた木箱がぐらりと傾いた。わたしと真珠ちゃんのほうに向かって倒れかかってくる。
床に叩きつけられた瞬間、木箱のてっぺんの蓋が弾けとび、中から――。
中から、真っ赤なワンピース姿の女の子が転がり出てきた。
「キャッ!!」
真珠ちゃんは悲鳴をあげながら、こちらに滑りこんでくる「それ」をよけた。
わたしの足から、ストンと力が抜ける。しゃがみこんだせいで、わたしは仰向けの姿勢になっていた「それ」を、間近で見てしまうことになった。
真っ赤なつば広の帽子。床に広がるチョコレート色の巻き毛と、その合間からのぞく赤いくちびる。つやつやした真っ白な手足は、ばらばらの方向にだらんと投げ出されている。
「……メイズさん」
わたしがつぶやくのと、若菜ちゃんたちが悲鳴をあげるのは同時だった。
「うそっ!」
「ヤダ!!」
「落ち着いて! これは……人形です」
真珠ちゃんの言葉で、わたしたちはふっと冷静になった。
改めて、目の前に転がる人型のものをよく観察する。
そうだ。たしかに人形だ。
髪の毛の隙間から見える人形の顔はつるんとして、マネキンそっくり。
目はない。本来なら目玉が入っているべき場所には、かすかなくぼみがあるだけだ。鼻はあるけど、鼻の穴はない。口だけはリアルで、半分開いたくちびるの中には、濡れたように光るピンクの歯茎と、碁石のような質感の白い歯が見えた。
人形の腕に、そっと触ってみると……硬い。ティーカップみたいな手触りだった。
本物の人間や死体じゃないとわかって安心したのもつかの間、疑問が次々と湧きあがってきた。
なぜ、こんなところに人形があるのだろう。なぜ、わたしが夢で見たメイズさんにそっくりなのだろう。なぜ、ウーさんがお札に触れただけで頑丈そうな鎖が外れたのだろう。なぜ、屋敷も木箱もボロボロなのに、この人形だけは新品みたいにきれいなのだろう。誰が作ったのだろう。階段で見えた人影は、なんだったのだろう──。
かち。
かすかな金属音が、わたしを現実に引きもどした。
かち、かち、かち、かち……。
時計の秒針が時を刻んでいる。
わたしの目の前。メイズさんにそっくりな人形が首にかけた細い鎖……その先につながっている、金色の懐中時計。
(生き返った)
どうしてかわからないけれど、そう思った。
わたしは感じた。今、この瞬間、なにかが息を吹きかえした。心臓の鼓動のかわりに、時計の歯車をかちかちと鳴らしながら……。
ぼぉ──……ん!
ぼぉ──……ん!
ぼぉぉぉ──……ん!!
柱時計が時を告げる音が、いきなりメイズハウス中に響きわたった。まるで何百個もの時計が同時に音をたてたような、ものすごい轟音だった。
耳の中を殴りつけられたような鋭い痛みに、わたしはたまらず耳をふさいだ。ウーさんや、真珠ちゃんたちも同じだった。わたしはたぶん悲鳴をあげていたけれど、時計の音にかき消されて自分の声を聞くこともできなかった。
……やがて、鳴りはじめたときと同じようになんの前触れもなく、柱時計の音はピタリと収まった。
おそるおそる、耳をふさいだ両手を外しながら、わたしたちはお互いの顔を見合わせた。
「今の……なに?」
「さあ……」
「ひっ!!」
おびえた声をもらしたのは、ゆにちゃんだった。
「な、なくなってる……なくなってる!!」
ゆにちゃんの震える指は、わたしの目の前の床をさしていた。赤いワンピースの人形が横たわっていた場所を。
だけど、そこにはなにもなかった。
わたしたちが時計の音に驚いた、ほんの一瞬の間に……消えてしまったのだ。
まるで、そんな人形なんて、最初からなかったみたいに……。
とうとう我慢できなくなった若奈ちゃんが、悲鳴を上げながらものすごい速さで階段を駆けおりていった。
ひとりが抜けると、崩れるのは早かった。絵美ちゃん、そしてゆにちゃんも、先を争うようにして三階から逃げ出してゆく。「待ちなさい!」と叫ぶ真珠ちゃんの声も、今回ばかりは届かなかった。
ひとりぼっちになった真珠ちゃんは悔しそうにわたしたちをにらむと、三人を追って階段を下りていった。
四人の姿が消え、やがて自転車のキィキィという音がメイズハウスから遠ざかって聞こえなくなるまで、ウーさんとわたしはその場から一歩も動かず、ただ、息を殺してじっとうずくまっていた。
だけど消えた人形が再び現れることもなく、時計の音も聞こえてこない。
メイズハウスは、なにごともなかったように、ひっそりと静まりかえっていた。
「……帰ろう」
ウーさんはそう言って立ち上がると、わたしに手をかして、立たせてくれた。左手には、赤黒く乾いた血がこびりついたままだ。
「それ……大丈夫? 痛くない?」
「ン? ああ……もう平気。知らないうちに、どこかに引っかけたのかも」
「消毒したほうがいいよ。黴菌とか入るかも。だから、えっと……」
言おうかどうか迷ったけれど、勇気を出して、わたしはウーさんを誘った。
「わたしの家、寄っていかない?」
ウーさんは、ちょっとだけ意外そうな顔をしてから……ニッと笑った。
「いいよ」
そうしてわたしたちは、メイズハウスから逃げ出した。
きっと、もう二度と来ることはないだろうと思っていた。……このときは、まだ。
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