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1.
少しずつ、少しずつ。
心の上に降り積もり本当の気持ちを覆いつくしていくそれは、埃のようなものだと思っていた。
なんでもない日常を送っていけば当然、発生するひずみ。
不満を持っても、不幸しか招かないものだから、小さく鬱屈を晴らしては心を穏やかに保つ努力をする。
それでも、降り積もる、降り積もる。
そして、気づけばわからなくなっている。
何に喜び、何に悲しんでいたか。
何が嬉しくて、何をつらいと感じていたか。
楽しいことは何だった?
好きなことは何だった?
私って、何…… なんだろう?
問うてはダメだと耳を塞ぐ。
見てはダメだと、首を振る。
この世に生存する限り、どこにいたって、私はひとりではないから。
真実から目をそらさなければ、うまくやっていけない。
―― いつか、積もりきった埃を吹き飛ばす風が吹くはず。
そうすれば、きっと、全てはまた良くなる ……
けれど、待っていたはずのその風は。
私の心を凍らせて、粉々に砕いた。
そして私は理解した。
―― 私の心に降り積もっていたものは、吹けば飛ぶような埃ではなかった。
冷たい冷たい、粉雪であったのだ。
積もってしまえば永久に、溶けることはない ――
※※※※
「ただいま」
玄関に入ると、スパイスと肉の煮える匂いが漂ってきた。
「なんだ、カレーか」
返事はない。怒ったのかと、慌てて言い直す。
「ま、たまには、手抜きもしないとな」
相変わらず返事はない。
新婚当時はそんなことはなかったのに 1年も経つうちに、妻は時々、出迎えをサボるようになった。
趣味と実益を兼ねて内職をしている以外は仕事もない。専業主婦という贅沢な地位に甘んじさせてやっているのに、働いて疲れて帰ってきた旦那を出迎えもしないなんて、どういうことだろう。
叱っても 「体調が悪かった」 と言うだけだから、もう叱りもしないが…… 1ヵ月のうちに何度も体調を崩すのがおかしい。
それなら病院へ行け、と言えば 「そういうんじゃないんです」 と黙ってしまう。全くわからない。
―― 付き合っていたときは、明るくて可愛くてよく笑う子だったのに…… 今では、俺を前にしても、機嫌をとってくれることはおろか、自分から話もしない。いつも無表情で、静かだ。
これが噂に聞いていた、嫁が劣化するというやつかな。
それにしても、早すぎないか?
クーリングオフ不可の高い偽ブランド品を買ってしまった気分だ。
「おい、また寝てるのか? お前がしょっちゅう体調崩すの、もしかして寝すぎが原因じゃないか?」
言いながらリビングに入って、まず目に入ったのは脚だった。
乱暴に投げ出された爪先には、最近ずっとしてなかったペディキュアが、丁寧に施されていた。親指の爪の隅に、小さな雪の結晶のシール。
アンクレットを巻いた、細い足首。
その下に敷かれているのは、新婚ほやほやのときに使ったきりそのままになっていた、ピクニック用のレジャーシート ――
投げ出された身体は、とがり気味のあごの陰から出てるヒモで椅子の背もたれに、ぶらさがるようにくくりつけられている。
完全に意識を失っている妻の横には、空っぽのエコー写真が落ちていた。
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