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 少しずつ、少しずつ。  心の上に降り積もり本当の気持ちを覆いつくしていくそれは、埃のようなものだと思っていた。  なんでもない日常を送っていけば当然、発生するひずみ。  不満を持っても、不幸しか招かないものだから、小さく鬱屈を晴らしては心を穏やかに保つ努力をする。  それでも、降り積もる、降り積もる。  そして、気づけばわからなくなっている。  何に喜び、何に悲しんでいたか。  何が嬉しくて、何をつらいと感じていたか。  楽しいことは何だった?  好きなことは何だった?  私って、何…… なんだろう?  問うてはダメだと耳を塞ぐ。  見てはダメだと、首を振る。  この世に生存する限り、どこにいたって、私はひとりではないから。  真実から目をそらさなければ、うまくやっていけない。  ―― いつか、積もりきった埃を吹き飛ばす風が吹くはず。  そうすれば、きっと、全てはまた良くなる ……  けれど、待っていたはずのその風は。  私の心を凍らせて、粉々に砕いた。  そして私は理解した。  ―― 私の心に降り積もっていたものは、吹けば飛ぶような埃ではなかった。  冷たい冷たい、粉雪であったのだ。  積もってしまえば永久に、溶けることはない ―― ※※※※ 「ただいま」  玄関に入ると、スパイスと肉の煮える匂いが漂ってきた。 「なんだ、カレーか」  返事はない。怒ったのかと、慌てて言い直す。 「ま、たまには、手抜きもしないとな」  相変わらず返事はない。  新婚当時はそんなことはなかったのに 1年も経つうちに、妻は時々、出迎えをサボるようになった。  趣味と実益を兼ねて内職をしている以外は仕事もない。専業主婦という贅沢な地位に甘んじさせてやっているのに、働いて疲れて帰ってきた旦那を出迎えもしないなんて、どういうことだろう。  叱っても 「体調が悪かった」 と言うだけだから、もう叱りもしないが…… 1ヵ月のうちに何度も体調を崩すのがおかしい。  それなら病院へ行け、と言えば 「そういうんじゃないんです」 と黙ってしまう。全くわからない。  ―― 付き合っていたときは、明るくて可愛くてよく笑う子だったのに…… 今では、俺を前にしても、機嫌をとってくれることはおろか、自分から話もしない。いつも無表情で、静かだ。  これが噂に聞いていた、嫁が劣化するというやつかな。  それにしても、早すぎないか?  クーリングオフ不可の高い偽ブランド品を買ってしまった気分だ。 「おい、また寝てるのか? お前がしょっちゅう体調崩すの、もしかして寝すぎが原因じゃないか?」  言いながらリビングに入って、まず目に入ったのは脚だった。  乱暴に投げ出された爪先には、最近ずっとしてなかったペディキュアが、丁寧に施されていた。親指の爪の隅に、小さな雪の結晶のシール。  アンクレットを巻いた、細い足首。  その下に敷かれているのは、新婚ほやほやのときに使ったきりそのままになっていた、ピクニック用のレジャーシート ――  投げ出された身体は、とがり気味のあごの陰から出てるヒモで椅子の背もたれに、ぶらさがるようにくくりつけられている。  完全に意識を失っている妻の横には、空っぽのエコー写真が落ちていた。
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