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「いった……」
信濃さんが、顔をしかめている。
「ちょっと休んでくる」
そう言って事務所に引き上げてしまった。相当蹴られたところが痛むのだろう。病院行かなくていいのかな。いや、もう開いてないのか。
「あとは僕達に任せて下さい」
そう言って、早退していただきたい気持ちもあるが、一瞬伊吹さんと二人きりになるだけでこんな不安になるのだ。
あと二時間ほど勤務が残ってるのに、その言葉をこちらから投げる気にはならなかった。
二人になると、すぐにお客さんが続々と入ってきた。
「僕が隣につきますので、伊吹さんはさっき信濃さんに教わったとおりにレジをしてください。聞いていた感じだと操作は問題ないと思います。お客さんへの笑顔は素晴らしいのでそのままで、あとは声をはっきりとゆっくり出してください」
僕は一丁前に指導していた。人生で始めてではないだろうか。人に指導するのは。いや、格闘ゲームとかボードゲームの必勝法とかなら友達によく指導してたな。でも仕事では初めてだ。その相手がこの人か。
伊吹さんを見ると、あっちも僕のほうを見て笑っている。大丈夫だろうか。疑問より不安の感情が勝るという僕にすれば珍しいことだった。
伊吹さんの接客は隣で見ていると、思ったよりも問題なかった。隣のレジからだと聞き取れなかった滑舌も、真隣だとそこまで問題はない。レジの操作も落ち着いていて、しかも結構早い。むしろ初日にすれば、優秀なほうなのではないか。
たぶん、信濃さんの指導が良かったのだろう。僕は少し嫉妬したのでそう思うことにした。
安心すると、さっきのことを思い出した。それにしても、あんな命の危険があるときまで関係のない疑問が色々出てきて気になってしまう自分に呆れた。
しかも信濃さんが襲われたときに身体は動かず、銃が本物か確かめたいと思ったときに初めて強盗に向かって行ったのだ。なんて自分勝手なやつだ。しかし、僕はまだ大きな疑問を二つ抱えてしまっている。それは、さっきの強盗の正体と、なぜ強盗は金庫の金を要求しなかったか、という二つだ。
「信濃さんのことが気になるんですか?」
え? 突然伊吹さんが話しかけてきた。しかもスラスラと。
「それとも、さっきの強盗の正体を考えてましたか?」
こ、この人。急にさっきよりさらに普通に喋っている。なんなんだ。しかも言ってることは図星だ。
「それもいいですが、さすがに信濃さんの様子見てきたほうがいいんじゃないですか? 強がりそうな彼女が休んでるんですからよっぽど痛いんだろうし、さっきのお客さんはたまたまカード支払いだったから大丈夫でしたけど、今レジには現金のお札がないんで、ついでに金庫からお札を持ってきていただければ有り難いのですが」
あ、ホントだ。しかし、この人さっきまでと様子が明らかに違う。まさか、ホームレスのフリをしていた? そんなことをして何のメリットが?
「さあ、諸見里さん。早く行ってください。僕なら一人で大丈夫です」
僕は伊吹さんの顔をじっと見た。近くで見ると、結構整った顔をしている。しかし、確かに彼の言うことはもっともなので、僕は「お願いします。あとで色々教えて下さいね」と言ってバックヤードに向かった。
そこには椅子に深く座り、机に腕を置き、その上に額をつけて寝ている信濃さんがいた。触れるのはあれなので、耳元で「信濃さん」と囁いた。少しドキリとした。いや、かなりドキリとした。寝顔はいつもの厳しい信濃さんではなく、僕より一歳年上なだけの二十歳の女子だった。
信濃さんは声に気付き起きると、すぐに僕をにらんだ。「大丈夫ですか?」と今度はさすがに聞いた。彼女は「無理」とだけ答えて、すぐに何やら数字の羅列を喋った。ついに頭がおかしくなったのではないかと心配したが、それが金庫を開ける番号だった。彼女は察しが早かった。
「あと、私のロッカーの上の棚にスマホ入ってるから、とって。これ鍵だから」
「わかりました!」
「あ、でも先に金庫のお札、先に何枚かレジに持っていきなさい。今、ないでしょ。伊吹さんも不安だし」
信濃さんは伊吹さんがなぜかレジが手慣れてることに気付いていないのか。しかし、僕は言われるがまま金庫を開け、千円札と五千円札を二十枚ずつポーチに入れレジに向かった。
伊吹さんはやはり問題なさそうだ。危なげなく接客している横からレジの中にお釣り用のお札を十枚ずつ入れ、もう片方のレジにも入れた。これでひとまずは安泰だ。
バックヤードに戻ると、急いでスマホを渡すために信濃さんのロッカーを開けた。なぜか中からは良い香りがした、気がした。自分のロッカーと同じとは思えない。内装も薄いピンク色に見えた気がした。
「あんた、余計なもの見たら張り倒すからね」
僕はピクッとしてしまったが、香り以外は普通のロッカーと何も変わらなそうだった。綺麗に整頓されていた。スマホを渡すと信濃さんはすぐに誰かに電話するようだった。
「あ、あんた店の電話から店長にかけて、さっきあったことのあらまし、伝えといて。まぁどうせ寝てるから出ないと思うけど」
「はい」
威勢良く返事したはいいが、では信濃さんは誰に電話するのだろう。店長に電話をかけながら耳を澄ませてみた。
「もしもし、ごめん。エミリ? 今、店で大変なことになってさ。強盗に蹴られて腰が痛いのよ。いやいやホントだって。銃持ってたんだから。うん。いやホント。レジの金だけ盗って逃げてったよ。マジのやつだから。うん。立ち上がれるけど、めちゃめちゃ痛い。悪いけど、家まで送ってくれない? うん。着いたらバックヤード来て。机で死んでるから。うん、ありがとう。よろしく」
信濃さんはそう言って早々と電話を切った。いったいエミリとは誰だろう。ちなみに店長はやはり電話に出なかった。警察にかけたほうがいいのではないか、とも思ったが、面倒くさそうなので店長に任せようか。
「というわけで、すぐに城咲さんが迎えに来てくれるから」
「え? 城咲さんですか?」
「あぁ、あんたまだ会ったことないんだっけ。ここの夕勤入ってる人よ。昼も入ってるけど。城咲絵美里。私とほぼ同時期に働き出した同期」
あ、そういえば、そんな名前の人聞いたな。唯一、シフト一緒に入ったことのない夕勤の人だ。女性だったのか。
そしてすぐ信濃さんはまた別の人に電話しだした。
「あー、もしもし。柳田君? ごめん、寝てた? うん。私ちょっと腰痛めたから早退するんだけど、あと残るのが入ったばかりの諸見里君と初勤務の伊吹さんだから、ちょっと今日一時間ほど早く出てこれない? うん。あ、いける? ありがとう。何があったかはまた話すわ。あ、諸見里君にでも聞いといて。なかなかスパイシーな話だから。はい、ありがとう。よろしく〜」
柳田というのはたしか深夜シフトに入っている、かなりいかつい兄ちゃんだ。二十代半ばくらいに見えたけど、あんな人にも信濃さんはタメ口でしかもシフトを早く来てくれと頼めるのか。しかも店長の許可も得ずに。あらためて凄い人だったんだ、と敬服した。
「というわけだから、あんたさっさと戻りなさいよ。それとも私が痛がってるのがそんなに面白いわけ? 悪趣味ね」
「いや、そんなわけないですよ!」
さっきの幼くなった寝顔をもう一度見たいと思ったのは内緒だ。
「あと、私が投げたカラーボール片付けて掃除しといてくれる? 悪いけど」
「わかりました。あれって何ゴミなんですかね?」
「さぁ? 知らなーい」
これ以上質問すると、また怒られそうな気がしたので、僕は店内に向かった。
「当たると思ったんだけどなぁ」
とつぶやく信濃さんの声が後ろから僅かに聴こえた。
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