1.メモも持たない僕達は

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「ちょっと! 諸見里君」  さっきまで奥で肉まんを機材に入れて準備していた信濃さんが急に真隣まで近付いてきていた。その声は怒っているのに小声という変な具合だった。 「は、はい? どうしました?」  俺はよく人から、抜けていると言われる。アルバイト三日目にして、もうその片鱗を見せつけてしまったのだろうか。 「さっきの人。何挨拶してるのよ」  さっき入ってきた怪しいお客さんのことだろうか。 「え? 駄目なんですか。昨日店長に教わったんですよ。新人は最初は細かい作業が出来ないんだから、入り口に近い方のレジに入って挨拶だけは元気よくしてくれって」 「またあの人は余計なことを」  あの人? 店長のことか? あれ、店長って店で一番偉いんじゃないの? しかもこの人、僕とそんなに歳が変わらなさそうなのに。 「店長はあまり店にいないから分かってないのよ。夕方に現れるあのお客さんの迷惑さが」 「何かするんですか? あの人」 「まあ見てりゃわかるって。あと、いくら挨拶隊長任命されたからって、それだけじゃ駄目だからね。お客さん来てないときは、コーヒー台のこぼし汚れ拭くとか、ホットドリンクの補充とかは教えてもらってなくてもできるでしょ。布巾はそこね。この時期はホットドリンクは温まってなかったら文句言われるから、早め早めに補充。売れ筋はこのへんに置いてあるから。倉庫まで取りに行ってたら時間かかるでしょ」  凄い早口だった。よく噛まないものだ、と思いながら僕は言われるがままに動いた。  今、店内のお客さんは、さっきの怪しい人以外いない。作業チャンスだ。今のうちに、さっき言われたホットドリンクの補充をしておこう。こっちのほうがコーヒー台よりレジから遠い場所にあるから、お客さんが少ないうちに済ましておくのだ。  それにしてもなんか恐そうだな、この信濃さんというアルバイトの女性。また下の名前も年齢も聞いてないのに。最初見たときは、綺麗な人でちょっとテンション上がったんだけどな。  昨日、初出勤をしたときの店長からの情報では、「しっかりした女性」としか聞いてなかったのに。しっかりした、ってオブラートだったのかな。  ふと後ろを振り返ると唐揚げをあげながら横目でこっちを見ている信濃さんと目が合った。  やば。真面目にやらないと。あぁ、コンビニってもっと楽だと思ってたなぁ。  売り場のホットドリンクの在庫を確認する。ほぼほぼ満タンでこれ以上入らないものが多いが、売れ筋であろう緑茶とカフェオレとミルクティが何本か減っている。入る本数を覚えて、レジの中の在庫を取りに行く。 「メモは?」  信濃さんに聞かれた。 「今から入るぶん、持っていくんでしょ。補充する商品のメモ書いてないの? 全部覚えてるの?」  うわ、メモ用紙忘れてきてしまった。 「すいません、忘れました、メモ用紙。でもだいたい覚えてますよ」  だが、実際忘れかけていた。 「本当に? じゃあ一本もミスはないのね」 「は、はい、たぶん」 「たぶん?」 「いや、間違いなく大丈夫です!」  本当だろうな、という目でにらまれた。確かに、緑茶は三本入るのは覚えていたが、カフェオレとミルクティは怪しい。記憶ではカフェオレが二本、ミルクティが一本、入るはずだった。  それを信じ、計六本を別のかごに入れて売り場に戻る。  緑茶が三本、ぴったりだ。カフェオレは二本、と。 あ。違う。 カフェオレが一本しか入らない。そしてミルクティを一本入れるとまだ一本の余裕があった。逆だった。俺は右手に持ったカフェオレをさり気なく左手に持ち替えてから、ミルクティを補充した。  そろりと、気配を消してレジの中に戻る。親に黙って夜こっそり家を抜け出して遊びに行くときの気分だ。フライヤーの温度を調整している信濃さんの横の在庫入れにそっとカフェオレを一本戻す。 「ね。だからメモ取らないといけないのよ」 こっちを見ずともバレていたようだ。 「は、はい」 「別に倉庫で補充するんだったら覚えとけるけど、店の中だと急にお客さんに場所聞かれたり、レジ応援入らないといけなかったりするからね。だからメモがいるのよ。分かった? 諸見里君、私にちょっと話しかけられただけで忘れちゃったんでしょ?」 はい、怖かったんで。 「それに作業してる間に、二人お客さん入ってきたの気付いてた? 挨拶隊長のはずが全くできてなかったけど。本末転倒じゃない? 素人のくせに油断してメモもとらないからそうなるのよ」 言い返す言葉もない。確かに店内を見渡すと見知らぬお客さんが二人いた。気付いてなかった。ただ一つだけ言い訳をするならば、挨拶隊長という謎の役職を自分で名乗りはしていない。信濃さん発信である。 「コンビニって客数が多いから常に半身でやらないといけないのよ。あ、もちろん内面的な話ね。で、残りの半身で全力で作業するの。それができていないと、今のあなたみたいにお客さんに気付かず」 急に話がとぎれた。どうしたんだろう。 「いらっしゃいませ〜」 レジに今入ってきたばかりというサラリーマン風のお客さんが来た。信濃さんは同一人物とは思えないほどの笑顔と高い声で接客している。 こういうことか。半身で仕事をするとは。常に周りに目を配る。すると、最初に入ってきた怪しいお客さんがこっちを向いている。正面から見るとホームレスのような風貌だった。思っていたより、顔は若かったがまさか本当にホームレスなのだろうか。 手には買い物かごも何も持たずに店内をうろうろしている。一応商品を覗き込んだり、手に取ったりはしているが買う気はあるのだろうか。
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