1 その夜、全てが変わった

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1 その夜、全てが変わった

峯原 咲太(みねはら さきた) 29歳、フルリモートのエンジニア。 後天性Ωである俺には3歳の娘がいる。 正真正銘、俺が産んだ俺の子供だ。 でも俺にパートナーはいない。一人で娘を育てている。 娘の父親はわからない。 あの日、俺は襲われたのだ。 何処の誰かも知らない男に。 25の歳迄、俺はβの筈だった。それなりに優秀な方だったと思う。 入社して3年、そろそろ仕事も覚えて後輩も出来て、安定してきた頃だった。 仕事帰りに仲の良い後輩と飯を食って、駅で別れて、電車を降りて、もう直ぐ一人住まいのマンションというところで、暗い路地に引きずり込まれた。 訳がわからないながらも抵抗したが、人並み程度には力もある筈の俺の抵抗は全く意味をなさず、力づくで犯された。 性急に荒々しく押し入られて、揺さぶられて、腹の奥で射精された。 黒いマスクに隠れて顔も見えないままのその男から妙な匂いがしていたのだけは覚えている。 自分が被害者になるなんて考えた事すらなかった。 だって俺は非力な女性でもΩでもない、ごく普通の体格の男だからだ。 何なら少し平均より長身ですらある。 ご丁寧に後ろと前から2度犯され、ボロ雑巾のように放置されて、震える手で片足にかかった下着を引き上げ、スラックスを着直して、転がった靴を履いた。 痛む体を引き摺りながら、何とか帰りついたマンションの風呂場に直行して、腕や足についた犯人の指や手の跡に気がついた。尻の穴に湯が沁みて、中に出された精液を出しながら、泣いた。 レイプされたなんて誰にも言えなかった。 後から思えば、打ち明けない迄も、性病検査くらい受けに行くべきだった。 なのにあの時の俺は、男なんだし、犬にでも噛まれたと思って忘れようかと考えていた。 自力で何とか乗り越えられると、自分を過信していた。 でも突然植え付けられた恐怖は、思いの外深く、特に直接的な対人関係に支障をきたした。 歯を食いしばるようにして行っていた会社に、とうとう行けなくなる程の、心身の不調。 自然、引きこもり、自堕落な生活になった。 そして数ヶ月。 当時付き合っていた彼女が、もうこれ以上は俺を支えられそうにない、と離れていった頃、限界を感じた俺は病院を受診した。 検査を受けに行った病院で、俺は思わぬ診断を受けた。 俺は自分でも知らぬ間にΩに変異していたのだという。 非常に稀有な例、だとの事。 亡くなった母がΩだったという以外、αやΩという性とそんなに接触無く生きてきた脳内には、バース性についての知識は必要最低限しか無く、戸惑いを隠せない。 症状は出ていなかったか、と聞かれても、思い当たるのはせいぜい微熱や腹痛があったかなという事くらいで、それだって風邪かと思っていた。 それだというのに、医師は更なる過酷な事実を俺に告げたのだ。 『妊娠されています。』 と。 既に22週を越えていた。 何の悪夢かと思った。 確かに吐き気はよくあった。けれど、自堕落な生活を自認していた俺は、腹が少し出てきていたのは栄養の偏りで腹だけが少し太ったのかと思っていた。 頭痛も発熱も眩暈もあったし、胸がつかえたり腹部膨張感なんかもあった。だからてっきり、気鬱なのかと。 普通の病院で原因がわからなければ精神科に行ってみようと考えていたが、 ……そうか。妊娠。 しかもΩに変異していると言う事は、Ωならではの症状も併せて出ていたと言う事なのか。 妊娠という事は、当然あの時だろう。 帰り。 病院のガラス張りの出入口に映る自分の姿に、愕然とした。 がりがりに痩せて、目と腹だけが出た餓鬼のような。 惨めだった。 俺は、何故こんな事になっているんだ。 俺は、こんな運命を背負わされる程の悪事でもしたというのか。何時?意識せず?それとも前世で? 悔しさで溢れる涙とこの腹にいるという忌々しい命の鼓動だけが、今の俺の生きている証だった。 どうしたら良い。 俺にはもう誰もいないのに。 両親も姉も、俺が高校生の頃に事故で逝き、もうこの世にはない。 彼女は離れていった。 仲の良かった同僚や後輩とは、会社を辞めてしまった時点で連絡を断っている。 地元から離れてから就職したから学生時代の友人達とも疎遠になっているし、それに、普通のβ男性である彼らにそれを相談出来る訳も無い。 今の自分の特殊な立ち位置や状況を、わかってもらえるとはとても思えなかった。 孤独を痛感した。 病院に行く前迄は誰にも知られたくないと思っていた事が、自分では抱えきれない大きさのものだったとわかった途端、不安に苛まれて身動きが取れなくなった。 誰か、誰か。 震える指でスマホの画面をタップして電話をかけた。 (ブロックしないでいてくれ…。) 頼れるのは、俺の立場に近い女性しかないと思った。 コールは7、8回。 『…はい。』 聞き慣れた声。 『なに?よりは戻さないわよ。』 通話の相手は去っていった彼女だった。一度は俺に愛想を尽かした相手に頼るのは、筋違いだとわかっている。 「ごめん。よりは戻さなくて良い。 只、話を聞いてくれないか…。誰かに、相談したくて、」 俺の声に嗚咽が混じった事で、画面の向こうでは彼女が困惑している様子。 平日の午前中で、きっと仕事中だ。迷惑、なんだろう。 それに…別れた男の相談事なんて、大抵ろくなもんじゃないと相場が決まってる。 俺はやはり諦めて、子供と共に死ぬ事にしようと思った。 誰にも迷惑はかけられない。 「やっぱりいい。悪かった。今迄も、ありがとう。」 そう言って電話を切ろうとしたら、待ってと呼び止められた。 彼女は敏い人だった。俺の様子がおかしいと気づいたんだろう。 俺が被害に遭っておかしくなったあの時期も、何があったのか話してと根気強く何度も言われたのに、俺は…。 『今、何処なの?』 「病院の帰り。」 『…何があったの。病気?』 「…俺、妊娠してた…。」 『妊娠?!いや何言って…』 そう言いかけて、彼女は言いかけた言葉を止めた。 『…夕方迄待てる? 友人としてなら、聞くだけ聞くわ。』 「ありがとう。」 仕事が終わってから家に寄ると約束してくれて、通話は終了された。 ありがたいと思った。 別れの原因が浮気やギャンブルなんかじゃなかった事で、まだ彼女は俺を見捨てられなかったのかもしれない。 彼女は何も話さず引き篭るだけの俺に疲れたのだと思う。 なのに、何故別れた今更、と言われると、別れたからこそ話せるのだと言うしかない。 付き合ってる女に、男にレイプされてきた、なんて事が言える訳がない。 別れたからこそ言えるんだ。 彼女にしたって、彼氏がそんな目に遭ったなんて聞いて普通に付き合っていける訳がない。 くだらないプライドだと言われても、結構人ってそんなもんじゃないだろうか。 彼女は7時前に、チューハイと弁当と惣菜の袋を持って現れた。 「相変わらず汚いわね。 少しは片付けなきゃ余計に参るわよ。」 付き合っていた頃より、遠慮の無い物言いに逆に安心する。 「片付けなきゃと思うんだけど、体が…。」 俺は苦笑して、病院からの帰りに買ったペットボトルの茶をグラスに注いだ。 彼女はチューハイを持ってきていたが、弁当を食べるのなら、一応注ぐか…。 ローテーブルを挟んで向かい合って座る。 以前は横並びに座っていたけれど、もう俺達はそういう関係では無い。 彼女は自分と俺の前に弁当を置き、間に惣菜を2種類並べて蓋を取った。 「ありがとう、俺の分まで。」 「オゴリよ。やっと自力で動いた記念。」 「わざわざ御足労いただいたのにすみません。ご馳走になります。」 「……流石にそれはちょっと距離開けすぎ。」 そう言って彼女が笑ったので、少し場の雰囲気が和らいだ。 俺は箸を動かしながら、せっかくの弁当なのに全部は食べられそうにないのを申し訳無く思っていた。 「妊娠って、どういう事? アンタの事だから、ふざけてる訳ではなさそうよね。」 精神か頭の方を疑われるのかと思ったが、彼女は俺の話を思ったより真面目に聞いてくれるようだ。 「信じてくれるか、わからないけど…。」 そう言って俺は、重かった口を開いた。 軽蔑されないだろうか。 心臓が痛い。
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