春分

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春分

 ドン、ドン、という太鼓の音で目が覚めた。ああそうか、今日なのか。そっと麓を見れば祭りの準備が始まっている。夜祭のような賑やかな娯楽の祭りではない、大切な神事だ。  今日は農耕をする人たちにとって大切な日だ。土地の神に豊穣を願い、祈りを捧げる。そしてご先祖様を偲ぶ日。  僕は山を登った。もう少し上に行ったところにある、以前あの人が作った石を使った仕掛け。辿り着くと壊れることなく佇んでいた。どういう仕組みなのかわからないけど、昼と夜がだいたい同じ長さになる日が一年に二回ある。そしてその日はこの仕掛けの石の影が、印のあるところに真っ直ぐ伸びるんだ。丁度昼夜が同じ長さになる日だけが印の真上に影が来るので、本当はこの日が近づいて来たら毎日見て、この日を迎えるらしいんだけどすっかり忘れていた。  歩いている途中で土筆を見つけた。梅の見ごろは過ぎて、少しずつ桜の蕾が膨れ始めている。ヤマザクラは白っぽい花をつけるから、僕は最初梅だと思っていた。そしたらこれは桜なんだと教えてもらった。この山の麓には梅が、山の中には桜が咲く。とても色鮮やかで温かな気持ちになる。この国には四季があってそれを楽しむことができるのは、幸せな事だ。  地面には蟻の巣ができているし、いろいろな虫が増えてきた。この間は狸も出てきていた。地面に生えている草の中には花をつけているものもある。茶色だけだった大地に、白や紫の小さな花がたくさん咲いて彩りを添える。 遠くから聞こえる太鼓の音。鳴りやんだら祭りの始まりだ。  あの祭りの中心にいたのはあの人だ。皆を守る存在として、取りまとめる者として、祭りを取り仕切り祈りを捧げて演舞を行う。艶やかな着物に身を包み農具と刀を持って踊るあの人は、とても立派で美しくて。  神様に自分達が立派に生きている事をお見せするのだと言っていた。子供たちがすくすく育っているのは、流行病もなく健やかに過ごせているのは、豊かに実った稲や作物を食べているから。その恵みを分けて頂いている神様へ感謝を捧げるために……。 「……ちがう」  声に出して、はっとした。いけない、こういう事を言っては。神様に感謝する、それを皆で共有して幸せをかみしめる。それでいいじゃないか。そう、自分に言い聞かせてきたはずなのに。でも、やっぱり違うよ。だって、神様はすべてを救ってくれるわけじゃない。  神様を崇め奉っている者にしかその恩恵を授けないのはおかしい。僕はいつも一人で、誰も助けてくれなくて。神様にもたくさん祈った、願った。でも、助けてくれなかったじゃないか。助けてくれたのはあの人だけだ。あの人は神様なんかじゃないのに。  作物だって、皆が汗水たらして一生懸命育てているから実るんじゃないか。干ばつや冷夏で育たないこともある。ひもじい思いをしてやせ細って死んでしまう子供だっている。それは、神様のせいなのか。自分への感謝が足りないから、そんなことをするの? おかしい。そんなの神様じゃ―― 『誰だって、何かに縋りたい。頼りたいんだ、目に見えないものに。目に見えるモノに縋ったら、どうにも解決できないとわかってしまうからね。体は身近な人の為に、心は不安定なものに委ねるものなんだ』 そう語る姿は、どこか神々しくも悲しくて。 神様は、助けてくれないよ。僕を助けてくれたのは貴方で、あの村を護っているのだって貴方だったじゃないか。何で目に見えてきちんと役割をまっとうしている人に感謝をしないで、カミに感謝をするんだ。おかしいよ。 『本当、おかしいよね。それが人なんだ。不器用で、自分勝手で、弱くて。だから必要なんだよ。目に見えない縋る相手と、目に見える縋る相手、二つの存在が』  じっと空を見つめる。おめでたい日なのに、なんだか今日はダメだ。冬は耐えられた。春を待ってわくわくしていたはずなのに。  だってあの人との思い出は、春が一番多いんだ。僕を見つけてくれたのも、二人で桜吹雪を見たのも、土筆がたくさん生えた斜面で寝ころんだのも、山菜を探して歩き回ったのも、あの人の演舞を見たのだって……。  ゴン! と音がするくらい、それなりの力で頭を木にぶつけた。 「馬鹿! しっかりしろ!」  冬を楽しむ余裕を身につけたんだ、春を楽しむ気持ちを持つんだ。よし、祭りを見届けよう。今年は誰が祭りを取り仕切っているのかも気になる。ちゃんと、あの人の代わりに立派にやっているか見ようじゃないか。うん、と頷いて麓が見えるところまで走った。  ちらりと見える、村の近くにあるお墓の数々。……また、増えたな。誰か死んだんだ。その人たちの魂が安らかに眠れるように、その祈りを捧げる日でもあるのだから悪い事を考えてはだめだ。  僕は一人で生きる。一人で生きなくちゃいけないんだ。こんな事どうってことない、寂しくなんかないんだ。ねえ、そうでしょう? 『名前が必要だね、なんて呼ぼうか。そうだ、この名前はどうかな?』  地面に書かれたものを見ても、僕は文字なんて読めなかったから首を傾げるだけだった。今ならわかる、とても、とっても素敵な名前。 『お前はきっと、正しく生きられる。自信を持っていいんだよ、優しい子だ』  頭を撫でてくれたあの人の手は暖かくて。  その時の事を、昨日の事のように鮮明に思い出して。ちょっとだけ、涙がこぼれた。春を楽しめ、命の巡りを見届けよう。  今年の演舞は、あの人の弟だった。そうか、あの子に引き継いだのか。ねえ、君は今、何を思って踊るのかな。神に感謝しているかな? そのお役目は誰にでもできるものじゃない、神様の次に崇高な立場らしいよ。  務まる? 君に。あんなに素晴らしかった、あの人だって苦しんだのに……。僕が君にできることは、一つだけなんだ。その「役目」をまっとうする事が、僕がここにいる理由だから。 春分 太陽が真東から昇って真西に沈み、昼夜がほぼ等しくなる。春彼岸の中心日。 101593a9-9465-4753-a8a4-0548ab0185a1
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