立春

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立春

 昨日より暖かくなったなと思った。日も少しずつ長くなったと思う。少し前までは動くだけで寒くて丸まっていたけど、動き出すのがあまり億劫ではなくなってきた。  こうして暖かいなぁと思うともうすぐ春がくるんだなと思う。まだ風が吹けばかなり寒いが日の光が当たるとポカポカと暖かいと感じる。  山はまだ冬景色だ。所々に雪が残り木は枝しかない。あまりにも殺風景だが雪が溶ければ水がせせらぎ、じきに芽吹いてきて色とりどりの景色となる。息を吐き出せば朝晩は息が白くなるが、もうすぐ息が白くなるのも見れなくなると思うと寂しい気がした。春も夏も秋も見ることができない、冬だけの特権だ。  山の中腹からそっと麓を見る。小さな集落があり茅葺屋根からは煙なのか湯気なのかわからないが白いものがもくもくと上がっている。 「囲炉裏がついたのかな」  やっぱりみんな寒いからまず火を熾すところから。少し手足を温めて鍋に味噌汁を入れれば、部屋が温まるついでに熱い味噌汁も食べることができる。やがてその味噌汁の匂いに家族みんなが起き出して朝ごはんを食べる。まだ寒くて布団から出られない子供もいるだろう、そうすると母が布団を引っ剥がして起こすのだ。  まだ夜の時間が長い。日が昇ってこないと人々は起きてこない。もうすぐ太陽が昇り始めるこの時間が一番静かだ。動物たちは冬眠し、鳥たちも活発的には飛ばない。 「まだ少し寂しいけれど、もう少ししたら生き物たちが起きてくる。また賑やかな毎日の始まりだ」  己の声だけがあたりに響く。返事をする者はいないがこうして声に出してしゃべることにしている。それはきっと自分に言い聞かせるためだ。言い聞かせているという事は寂しいのかもしれない。 『冬は寒さが厳しく彩りもなくあまり浮かれた気分にはならないけれど。 何の音もしない静寂を楽しむことも冬の醍醐味だ。普段見えない景色が見えるし、聞こえなかったものが聞こえるよ』  そう穏やかに微笑みながらあの人は言っていた。あの時は冬なんて早く終わればいいのにとしか思っていなかった。何もないのに楽しむことなんてできないと思っていたが、それは自分が冬の景色はあまりよく見ていなかっただけだ。  冬は山場を越えてしまえば後は春の準備。それを今か今かと、木が、動物が、虫たちが、みんなが待っている。 「僕も冬を楽しめるようになりました」  ここにはいないあの人に、そう報告する。あの人が見たらなんて言うだろうか。すごいじゃないかと言ってくれるだろうか、成長したねと褒めてくれるだろうか。できればあなたに僕の成長を見て欲しかった。  だから今はあなたへの想いを言葉にする。風にのせて、あなたに届くように。 立春 寒かった日々からふと春を感じる温かさが芽生える日
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