アンティークショップ

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 医師から、これが最後の別れになると告げられて、僕と奈々実(ななみ)は個室に入った。  病室のリクライニングベッドに横たわるのは、奈々実の父――克之さん。やつれた顔で俯いていたが、僕らを見ると幾分目元が和らいだ。  ベッドの傍には妻の妙子(たえこ)さんが座り、すっかり筋張った夫の左手を、慈しむように両手で包んでいた。 「奈々実、(じん)君。来てくれてありがとう」  末期がん患者に施されるモルヒネの影響で、長らく克之さんの意識ははっきりしていなかった。  しかし今日の義父は、明朗な声で僕達を出迎えてくれる。  奈々実は呆気なく涙を零し、父の元に駆け寄った。 「お父さん……」  奈々実はベットに(ひざまず)き、父の右手を取って涙で濡れた頬にあてがう。  最愛の家族に両手を取られた克之さんは、ふっとその視線を僕に向けた。  義父の目鼻立ち整った風格ある面立ちに、僕は思わず背筋を伸ばす。 「すまないね、仁君。どうやら式までは持たないようだ」  威厳のある、低く落ち着いた声。  一人娘の花嫁姿を見る事も叶わず、泣き崩れる家族に囲まれて尚、克之さんは理性ある態度を崩さない。  モルヒネを断り全身の激痛に耐えてまで手に入れた正気で、僕に何かを伝えようとしている。 「いえ、こうして貴重な時間を頂けるだけで嬉しいです。ありがとうございます」 「仁君はしっかりしてるな。奈々実はご覧の通りこんな感じで……いつまで経っても子供のままだ」  ベッドの足元で顔を伏せている奈々実は、「だって、だって」と嗚咽混じりに繰り返す。 「至らない娘だが、仁君。奈々実の事をよろしく頼む……」 「はい。必ず、幸せにします」  克之さんは表情を緩ませると、右手を差し出そうとする。  その動きに気が付いて、奈々実は実父の震える腕を両手でしっかり支えながら、僕に向けて伸ばしてくれた。  僕は克之さんと固い握手を交わす。石のように無骨で冷たい彼の手に、少しでも自分の体温が届くよう力を混める。  克之さんはそのまま、ゆっくりと目を閉じた。  わずかに握り返していた右手からも、すっと力が抜けていく。  これが……そうなのか。  命尽きる前に直接伝えたいと、最後に振り絞った義父の一言は――ごくありふれた、娘を思う親の言葉だった。    泣き叫ぶ妻子に囲まれた克之さんは、穏やかな表情で息を引き取った。 * * * 「これは、おいくらですか?」  たまたま通りがかった英国アンティークの雑貨店『アンティークショップ・シキシマ』で、奈々実は競馬新聞に目を落とす老店主を振り返ると、ショーケースを指差した。  レジにいた老店主は面倒くさそうに顔を上げ、僕達を見て動きが固まった。  視線の先は、もちろん奈々実だ。  まったく美人はこれだから。  奈々実に言わせると、まったく男はいくつになってもこれだから。らしいけど。  店主は慌てて新聞を折り畳むと、いそいそとレジスペースから出てくる。  ショーケースに顔を覗き込むと、彼女の細い指先が示すシルバー・スプーンを確認した。 「お嬢さんはお目が高い……だがこれは、非売品じゃ」 「えーっ!? 売り物じゃないのに、どうして他のスプーンと一緒に陳列しているんですか?」 「本物のアンティークというのは、そこにあるだけで周りの食器を輝かせてくれる。昔の上流階級だって、一本残らず最高級のカトラリーを揃えていたわけじゃない。ひとつの本物が、その他たくさんの既製品を魅力的に見せてくれるものなんじゃ」  なるほど、奥が深い。  奈々実の指名したスプーンはショーケース中央に堂々と鎮座し、値札なんて野暮で分かりやすい価値がなくても、本物の輝きを放っている。  だからこそ、それを取り囲むその他大勢のスプーンも、そこそこの品だと錯覚してしまうのだ。  同じショーケース内に飾られてるわけだから、多少格は落ちても同じ舞台に立てるだけの価値があるはず。付けられた値札も、そう考えればお買い得だと思ってしまう。  店主はショーケースの鍵を開け、クロス越しに中央のスプーンを取り出し机に置いた。 「見るだけならどうぞ。でも直接は触らないでくれ。銀は手油(てあぶら)に弱いから」  クロスの上でライトアップされたシルバー・スプーンは、一目見ただけで他とは違う繊細な装飾が施されていた。  他のスプーンは、草花に見立てたブライトカットが施されたものばかりだが、これは圧倒的に装飾の線が細く、長い。  スプーン先端の丸いつぼ部分から()の表面に沿って、十本以上もの細い銀線が真っすぐ持ち手へ伸びている。柄尻(えじり)は下側に少し角度が付けられて、その表面には曲線で8の字が描かれている。  昔の銀食器(シルバー・カトラリー)に、これほど細かい細工ができるなんて……とにかく高そうだという事は、よく分かる。 「ほんとにこれ……すごい事だわ」  奈々実は腰を屈めスプーンに顔を近づけ、大きな瞳を見開いている。 「これ、本当にアンティークなんですか? まるで現代の3Dプリンタで造ったみたいに精巧だ」 「彼氏さんは疑り深いな。英国のシルバーカトラリーには、漏れなくホールマークが刻印されている。偽物なんて作ったらすぐにバレてしまうよ。ほら、ここにあるだろう?」  店主はクロス越しにスプーンの先端を軽く摘まむと、くるっとひっくり返した。  裏面にはなるほど、小さい刻印が四つ並んでいる。  しかしそれが何を意味するものか、素人の僕にはサッパリ分からない。 「この四つのホールマークから、このスプーンは一九四一年製、英国シェフィールドで製造されたブリタニア・スプーンだと分かる。スターリングシルバーは聞いた事があるだろう? 銀の含有率九二.五パーセント以上のものをそう呼ぶんだが、ブリタニアはその上。銀の含有率は九五.八四パーセントで、実用的な硬度ギリギリまで銀を使っておる。銀食器の人気があった当時でも、ブリタニアのカトラリーは滅多に造られていない」 「昔は金と銀に、同等の価値があったんでしたっけ?」 「ちょっと違う」  僕のうろ覚えの知識に、店主は自慢げにウンチクを垂れる。 「イギリスにおいて、金と銀がどちらも希少な鉱石であった事は確かだが、職人はただ金属を売っていたわけではない。金はジュエリー、宝飾品に多く用いられ、銀はカトラリー、食器や雑貨に好んで用いられた。古くからそれぞれの金属特性を生かし、使い分けてきた歴史そのものが、アンティークに価値を与えていると言ってもよい」 「銀のジュエリーや金のスプーンは、ナンセンスというわけですね」  僕の相槌に、老店主は満足そうに頷いた。 「イギリスでは昔から、赤ん坊が生まれた時に銀のスプーンを贈る習わしがある。その由来は『あの子は銀のスプーンを口に咥えて生まれてきた』と、良い家柄の子を例える言い回しから来ている。こういう英国文化を知っておれば、金のスプーンより銀のスプーンの方が価値があると思えるだろう?」 「とても興味深いです! このスプーンも本当に素敵だし……写真を撮ってもいいですか? 後で自分でもホールマークを調べてみたいです!」   奈々実の明るい声に気を良くした店主は、写真だけならと許可をする。  奈々実はスマートフォンを取り出すとスプーンの裏側を撮影し、ちゃっかり裏返してもらって表側の装飾も写真に納めた。 「これってやっぱり……売ってもらう事はできないんですよね?」 「本物のアンティークには、果たすべき役割、あるべき場所がある……申し訳ないが、これを手放す気にはなれないんじゃ」 「そうですか……残念ですけど、分かりました! 写真まで撮らせてもらって、ありがとうございます!」  奈々実は明るくそう言うと、店主に名刺を差し出した。 「これ、私の名刺です。もし気が変わって売る気になったら、真っ先にご連絡下さい!」 「お、そ、そうか」  面食らう老店主にお辞儀をすると、奈々実は僕の腕を取ってアンティークショップの出口へ歩いていく。  おいおい、他のスプーンは見なくていいのかよ?  半ば強引に立ち去ろうとする彼女に声をかけようと、その横顔を覗き込んだ瞬間、僕は言葉を失ってしまった。  奈々実は唇を噛みしめ、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべていた。 * * * 「やっぱ既製品だと、あそこまで凝ったデザインのものってないよな~」 「……」  カタログを広げてわざと大きな声を出してみるも、奈々実は無反応。顎も頭も上の空。  彼女は自分のベットに背中を預け、焦点の合わない視線をただひたすら部屋の天井に向けていた。  結婚式の引き出物はスプーンがいいという彼女の要望に答えて、街で色んな雑貨店を見て回ったまでは良かったものの……あのブリタニア・スプーンとやらに、ここまで心を奪われてしまうとは。  百円の古本を買うのにたっぷり三十分は迷う奈々実が、値段も分からない高級アンティークを名刺まで渡して買おうとしている事も、なんだか気がかりだ。  そして店を立ち去る際に流した、涙も。 「奈々実、聞いてる?」 「聞いてない」 「君が突然心奪われたのが、イケメンじゃなくスプーンだったのは不幸中の幸いだけどさ。そろそろ話してくれてもいいんじゃないかな?」  ばっと首を戻して僕に振り向くと、奈々実はにんまりと笑った。 「ふふっ、スプーンに嫉妬しちゃった?」 「話してくれないなら、この部屋にあるスプーン全部、黙って燃えないゴミの日に出しちゃうくらいには」 「それは……困るなあ」  彼女は苦笑しながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。小さな長方形の箱を手に戻ってくる。 「これを捨てられちゃったら、さすがに困るからね……」  彼女はテーブルの上に置いた箱を開けた。  中に入ってたのは、磨き上げられたアンティークのシルバー・スプーン。 「これって……」 「そういうこと」  それは、例のアンティークショップで見つけたものと全く同じ。  ブリタニア・スプーンの細く長い銀線は、室内光を反射して妖しい煌めきを放っていた。
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