木に立ちて見る

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 九月の始めの事だった。  弘樹は日曜日だというのに、その日は惰眠を貪ることはせずに朝食の後、キッチンの片づけをしていた。  この日は弘樹の誕生日、それも二十歳になるという記念すべき日だった。大学生で親の脛を齧っている現状では大人と呼ばれるかどうか疑問の残る身分ではあるが、法律上は成人だ。休みの日に母親の家事を手伝うくらいの気概を見せてもいいだろう。  母は朝食が終わると、弘樹の誕生日のお祝いにと普段よりも少し豪勢な物を買いに出かけた。荷物持ちを買って出たが母は何を買って来るか知らせたくないといい一人で出かけてしまったのだ。置いてけぼりをくらった弘樹は仕方なく、留守番をしている。  勉強や課題をする気分にはならず、弘樹はリビングでスマホをいじって暇をつぶしていた。  その時、不意にチャイムが鳴る。  母が返ってくるには些か早すぎる。だからきっと宅配便か何かだろうと当たりを付けた。そして弘樹の予想は的中した。印鑑の場所は見当が付かなかったので、弘樹はさらりと伝票にサインをして荷物を受け取る。  重さはそれほどでもなかったが、細長く片手で支えるに少々不安のある大きさの荷物だ。  てっきり母の注文した荷物か何かだと思っていたが、宛先はまさかの自分になっている。  改めて伝票を見ると、差出人は成田酒造となっている。初めて聞く名前だし、今日成人を迎えた弘樹が酒蔵に足を運んだ事などただの一度もない。ひょっとしたら酒蔵から届いただけで中身は酒ではないのかも知れない。いずれにしても宛先は間違いなく自分なのだから開けてみたところで、誰に咎められることもないだろう。  弘樹はリビングに戻ると机の上に荷物を丁寧においてから、慎重に梱包を開けた。包み紙の下には化粧箱があり、それを開けるとやはり日本酒が出てきた。弘樹は荷物を開けて、余計に訳が分からなくなってしまった。  後は母に尋ねるしか荷物の正体を確かめる術は思いつかない。  そう思ってせめて梱包用紙と化粧箱だけは片付けてしまおうと思った。すると、化粧箱の中にまだ何か入っているような気配を感じた。決して重いものではない。紙のような感触だ。  てっきりこの日本酒の説明書きでも入っているかと思って、化粧箱を逆さにして振ってみた。思った通りに紙は出てきたのだが、それは説明書きなどではない。  手紙だ。  パソコンで印字された形式ばった文書だったが、それを読んで弘樹は息をのんだ。そしてこの荷物の正体も全てわかった。  差出人は父だった。  弘樹の二十歳になる誕生日を見越して、五年以上も前に知り合いの酒蔵に日本酒とこの手紙とを届けてもらえるように頼んでいたのだという。普通なら中々粋な事をする父親、という形で終わる話だが弘樹の場合は少し勝手が違った。  ぐっと目頭が熱くなった弘樹は、何とかそれを堪えて食器棚からコップを取り出す。そして合わせて日本酒の瓶を持つと、弘樹は仏壇のある部屋へと移動した。  弘樹の父は四年前に死んでいた。腎臓の病気だった。  手紙にはお祝いの言葉と共に、死期を悟り弘樹が成人を迎えるまで生きることができない謝罪の言葉が書かれていた。そしてせめてもの償いにと、酒蔵の知り合いに醸造を頼んで弘樹が二十歳を迎える日に届けてくれるように手配したという種明かしがされていた。  格好つけのつもりか知らないが、この事は母も知らないらしい。だから弘樹はふと、最初の一杯だけはこうして自分ひとりで父の前に座って飲んでみたい気分になったのだ。  高校時代の悪友や大学のサークルの新歓コンパなどで酒を勧められたことは、片手では数えられないくらいにはある。けれども弘樹はそれを拒んできた。別にお堅いわけではない。現にその悪友に促されて隠れて煙草を吸ったことは数回あった。けれども酒だけは、自分でも分からないくらい頑なに断っていた。  だからこれが、正真正銘の人生で初めての飲酒になる。  今日で成人を迎えているのだから、決して悪い事でない。けれど弘樹は今までのどんな悪事をするよりも心臓の鼓動を感じていた。  そうして酒を注いだコップに口を付ける。  口内と喉の奥がアルコールでこじ開けられ、一瞬だけ息ができなくなってしまう。  思わず咽て、如何にも苦しそうな咳を仏間に響かせる。けれども弘樹はその時初めて大人になったんだと実感していた。
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