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外は天気予報通り昨夜から雪が降り積もり、大都会が珍しく白い世界で覆われていた。
今日から三連休。
仕事帰りの金曜日同居人の川島夏菜とスーパーで明日からの三日間籠城するぞと意気込んで買い物かごをいっぱいにしてまるでハワイでも行くかの如くウキウキして帰り冷蔵庫に食材を詰め込み、お風呂から上がるとネトフリでゾンビ映画を見ながら焦点の定まらない話をしては笑い、眠った。
世界は一夜にして変わる。
昨日は確かに年明け一番の寒さだったけれど、澄み切った青空で所謂いいお天気だった。
今は見渡す限り雪、雪、雪。
そして絶望する私。
「・・・・・・最高の三連休になるはずだったのに・・・・・」
「嫌、なってるでしょ。予定通り雪積もっててさ、仕事は休み。食べ物は潤沢にあって、見るものもいっぱいある。お互いすこぶる健康。他になんか必要?」
「・・・・・・・時を止めて・・・・・違う。私だけ昨日に戻して。
何も失っていなかった。全てが満たされていた昨日の夜に・・・・」
「藍、なんていうか、しょうがないじゃん」
「しょうがなくない。そもそもしょうがないって何?」
「嫌、しょうがないはしょうがないでしょ。もういいじゃん。これを機にさ、卒業しよ」
「卒業って何?する理由がない」
「嫌、あるでしょ。いいタイミングじゃないの?更新三月でしょ?」
「もう起き上がれない」
「まあ炬燵に入っときゃいいよ。まあでも早いよね。まだ二十九でしょ?」
「今年の十一月で三十」
三十前に結婚したかったんだろうねと夏菜が言う前に「言わないで」と叫ぼうとしたが、私の身体はそれを拒んだため、滑稽にも唇だけが半開きになり閉じられた。
「昨日に戻りたい。それができないのなら、いっそ地球ごと雪に埋もれて欲しい」
「あー、そしたら池ちゃんの結婚自体なくなるね」
結婚。
自分以外から発せられた言葉はまるで空から降ったドカ雪のように私の身体をぺしゃんこにしてくれる。
その調子で覆ってくれ。
そして溶けてしまって何事もなかったかのように春を迎えてくれ人類よ。
「今私夢を見てたりする?」
「するか。現実だわ。朝ごはん食べたでしょ?」
そうだ。
昨日買ったあんこがずっしり詰まったあんパンとクリームパンを二人で半分づつして食べ、牛乳にきな粉をいれて電子レンジで温めて、ヤクルトを飲んで蜜柑を食べていた。
そう平和だった。
ほんの数十分前までは暖かい部屋で炬燵に入り朝というよりは大分昼寄りな朝食を食べ、今日はどれ見よっかと窓の外の白銀世界を一瞥し、今日から三日間働かなくていいという、抑えきれない高揚感に浸りながら、ひょっとしたらこれが完全な世界ではと思っていた。
そう、あれを目にするまでは。
「まあ、あれだよ。ちょっと早かったけど、もう潮時じゃないの?あたしらももう三十だし、自分達だって結婚するのに相手に生涯独身でいろっていうのは人権侵害じゃない?お金落としてるからって何でも言っていいわけじゃないよ」
「そんなこと思ってない。いつかそういう日が来てもしょうがないとは思うよ。でも今じゃない。絶対今じゃない。今じゃないんだよ」
「嫌、でも仕方ないじゃん。できちゃったんだし」
ああ。
これが自分の声かと思うほど低い声が出た。
嫌、ホントは出てなかったのかもしれない。
出たのは私の魂で、もうこの身体には何も入ってないのかもしれない。
それにしては私のお腹には何やらありそうだ。
ああ、さっき何も知らなかった私が食べた朝食か。
蜜柑なんか二つも食べたもんな。
ああ、やってられない。
「時を戻して」
「どこまで?」
「昨日の夜に。もう永遠に昨日の夜を繰り返したい。雪の中仕事にも行かなくていい、冷蔵庫は好きな食べ物でぎっしり。ネトフリでゾンビ映画三昧。
これ以上ないくらい幸せだった私に。完璧だった私に」
「ねえ、ちょっと前向きに考えなよ。これを機にさ、あんた名義と私名義、あとあんたのお母さんとお姉さんと妹さん名義で入ってる五人分のファンクラブ代がいらんくなるんだよ。二万五千円分だよ。これ結構大きくない?」
「一年間二万五千円浮いたからって何なの?池ちゃんが結婚してない世界に戻れるなら全財産投げ出してもいいわ」
「馬鹿じゃないの。てか、何がそんなに嫌なの?リアコじゃあるまいし」
「いつかは結婚して父親になってって思ってたよ。でもいつか、だよ。今じゃない。少なくともこんな三連休の初日にそんなことする?情緒ぐちゃぐちゃだよ」
「嫌、何でそんなに配慮せにゃならんのよ。結婚なんて個人的な事でしょ」
「人を天国にも地獄にも突き落とせる人のすることじゃないのよ。命握られてんのはこっちなんだよね。よくアイドル可哀想っていうけどオタクの方がよっぽど可哀想なんだよ。私たちはいつも彼らに幸せにしてもらうしかないけど、あっちは私達がいなくても幸せになれるんだもん。あー、結婚しましたって文字だけでこうよ?メンバーのお祝いコメントとか共演者からも祝福とか、あー、もう駄目。もうホントに駄目。もう永遠に雪降って日本中家から出られなくして」
「呪いの規模が小さい。もう。でもさ、隠し通せたのすごいよね。だって一度も撮られてないじゃん。インスタ匂わせとか何もなかったんでしょ。逆に凄くない?偉いんじゃないの?アイドル的には」
「・・・・・・・心臓の準備期間がなかった・・・・・・・・・いきなり上から落ちて来た。そして逃げ場がなく倒れた・・・・・」
「まあそうか。助走がなかったもんね。前触れないとね。予告なしに剛速球だもんね。二百キロくらいの」
「死んじゃうやつだよ」
「まあ死ぬかもね」
「酷すぎる」
「嫌、何も酷いことしてないでしょ。寧ろあの、何ていうか良かったんじゃないの?女子アナとかアイドルとかじゃなくって。二世女優でしょ。お父さん個性派俳優として評価されてるし、お母さんは超美人女優だし、あの二人の娘にしては地味でキャラ薄い女だけど、背高くて足長いし、池ちゃんの格も上がるんじゃないの。少なくとも叩かれたりしないでしょ。もう最近はアイドルの結婚は市民権得てるでしょ」
「世間とかの話じゃないのよ。単純に私が受け入れられないの。事実として認めたくないのよ」
「もう結婚しちゃったし。子供も夏には生まれるし。良かったじゃん。池ちゃん顔だけは可愛いんだから、その遺伝子残さないと」
「顔だけじゃないよ。おっとりしてていつも穏やかでメンバーのこと大好きで。いつもキラキラした笑顔見せてくれて。顔が可愛いだけってよく言われてるけどそれは池ちゃんのこと何にも知らないだけだよ。テレビで見てるだけだとわかんないだろうけど凄く皆のこと考えてるし、いつも気にかけてて、寄り添える子なんだよ。本当に暖かい子なんだよ。だからさ」
「うん」
「ファンのこと考えもしないでデキ婚なんてプロ意識が足りないとか叩かれるのが悔しいんだよ。絶対言うもん。何回も女の子と写真撮られてる寺地担とかに言われるのかと思うと腹立って死にそう」
「見なきゃいいじゃん。ネットなんて見なきゃ見えないんだから」
「だって何でこのタイミング?ツアーあるんだよ」
「授かったからでしょ?」
「もう嫌。月曜から働けない」
「新しく誰か推したら?ソシャゲのアイドルとか。一生結婚しないよ」
「二次元は無理。生きている人間の繊細な表情の移り変わりには絵は勝てないよ。つーか池ちゃんしか無理。あの顔ホント好き。大好き」
「じゃあ一生好きでいればいいじゃない。何の問題があんの?」
「え?」
「結婚したからって池ちゃんの顔変わんの?暖かい子じゃなくなるの?
グループ脱退するの?歌って踊らなくなるの?違うでしょ?」
「・・・・・・・・・・うん・・・・・・・」
「推す推さないってあんたの気持ち一つでしょ?向こうは推してくれなんて頼んでないんだし。アイドルとファンなんて推さなくなったら何のつながりもないんだよ。あんな大好きなのに。一瞬を見逃したくないって十三年間どんな小さなことでも追いかけ続けたのに、たかが女と結婚しただけで推さなくなるの?ホントにたかが結婚じゃん。別にツーショットなんか披露しないだろうし、これからも何も変わらんでしょ。そもそもあの可愛い顔見ないで生きてられるの?推しなしに仕事乗り切れるの?なによりの回復薬じゃん」
「・・・・・・・・・うう・・・・・・・」
「雪めちゃくちゃ降ってるけど、これだっていつか止むよ。そいで溶けるよ。
月曜から仕事だよ。どんだけ落ち込もうが時間は経過して、一分一秒残り時間は無くなってくよ。楽しまなきゃ損じゃない?」
「楽しむって言うけど、もうゾンビ見るテンションじゃないよ」
「あっ、そう。私は見るけどね」
どうやら私はそのまま眠ってしまったらしい。
夏菜に起こされると夜の七時で、カレーのいい匂いがし、狭い台所に立つ夏菜の横顔が涙で滲んで見えた。
私は立ち上がり、首を廻し深呼吸する。
「ごめんね」
「ホントにね。藍がカレー作って三日食べようって言ったのに」
「ごめん。ホントごめん」
「カレー食べて。思いっきり笑える映画見て、アイス食べて。だらだらしよ」
「うん」
夏菜の作るカレーはいつもジャガイモが大きくって固い。
でも今日はそれが何だか安心できた。
変わらないものがあるみたいで。
「カレーっていつ食べても美味しいよね。世界一美味しい食べ物かも」
「藍、この間おでん食ってる時もそう言った」
「そうだっけ?」
「そうそう。で、さっきさ、私池ちゃんは何も変わんないでしょって言ったけど、考えたらそれ違うなって思って」
「え?」
「人って変わっていくでしょ。人だけじゃなくって何だってこの世にあるものは変わってくよ。昨日はあんなにいいお天気でお日様だって出てたのに今こんなに雪降ってさ、それこそ人一人くらい埋まっててもわかんないくらい。
カレーだっていつ作っても同じ味にはならんでしょ。蜜柑だって同じ蜜柑はないんだよ。私達だって変わってくよ。だって昨日の藍と今日の藍は違うでしょ。今日の藍は推しに結婚されて担降りに悩む私なわけじゃん。明らかに昨日とは違うよね。昨日の藍はもう永遠に帰ってこないんだよ」
「何か壮大な話になってない?」
「なってないよ。だからさ、うーん、何て言うか、いけるところまでいったらってこと」
「うん?」
「推さなくなることはいつだってできるよね。でも推すことは一生はできないでしょ。藍が年取る様にあちらさんだって年を取っていくわけで、それこそあの可愛らしい顔がどんどん皺がついてまあ、残酷に言うとオッサンになってしまうわけで」
「うん」
「だから、藍が池ちゃんを見ても好きーってならなくなったら推すのやめたら?まあ、まだ当分可愛いだろうけどね。三十五くらいまでは余裕でいけるでしょ。顔の維持には本気出してくるだろうしね」
「うん」
「まあ私はどっちでもいいよ。すぱっと降りられるならそれもいいと思うし。
ただ十三年って長いよね。よくそんだけ推したわ」
「私もそう思う。やっぱり運命なのかも」
「またその話?」
「だってデビュー日が私の誕生日だったんだよ。そんなの運命じゃん。一生推すって思うよ。池ちゃんは写真撮られたり態度悪くて炎上とかしてこなくってずっと優等生だったし。ホントにいい子なんだよ」
「わーかったって」
「そうだ。一生推すわ。無限に推すわ。池ちゃんが年を取ってしわくちゃになったって、輝いていた池ちゃんを私は知ってるもん。映像だっていくらだってあるもん。見なくたって思い出せるもん。私は池ちゃんが好き。池ちゃんが好き。池ちゃん以上に私の心を揺さぶる存在はないわ。そう、池ちゃん。池ちゃんだわ」
「あっそ。良かった。答えでたんね」
私は立ち上がる。
両手を大きく広げ世界中に訴える。
聴衆はたった一人だけど。
「何があろうとも池田涼介君を一生推します。永遠に愛します。てか大好きだよー。池ちゃん!!」
私は台所へ行き冷蔵庫を開けハーゲンダッツ二つを手に定位置に戻る。
夏菜が私が寝てる間に探しておいてくれた映画を再生する。
「アクション?」
「ビルとかが思いっきり破壊されて、主人公が素手なのに最強でめっちゃ笑えるって」
「おー、最高じゃん」
大好きな友達と美味しい食べ物はどっさり。
仕事は月曜日まで行かなくてもいい。
外は雪が降り積もり外界は遮断。
推しの生存は確認され、彼が今幸せだと言うことも確信され、他に何がいると言うのか。
そう、これが最高。
私当分ネットは見れないだろうな。
でもいつかは見る。
それはとても早いかもしれないし遅いかもしれない。
まあこの雪が溶ける頃にはきっと。
雪が永遠に降り続けることはないのだから。
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