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夜のとばりがあっという間に降りて、空に見える星々も、町中の光も、圧倒的な量となる。
「――ああ、そろそろ始まるよ」
「え?」
花音が聞き返すのとほぼ同時に。
屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。
誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。
「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」
「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」
説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。
屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。
複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。
――花音。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。
今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。
めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。
けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。
そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。
……ああ、そうだ。
花音は両手で顔を覆った。
なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。
花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。
世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。
半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。
彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。
……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。
父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。
思い出したくなかった。
他のみんなが当たり前に享受していた両親からの愛情。それが自分には与えられていなかったと、気まぐれな一瞬にすがりつかなくてはならないくらい飢えているのだと、思い知らされるから。
父を憎みきれなくなるのと同じくらい、それが恐ろしかったのだ。
「あー……。あたしって、女々しいなあ……」
宝石が詰め込まれた宝箱の中に一緒に閉じ込められてしまったかのような、そんな現実離れした風景の中で。
花音は律から顔を背けながら上を向いた。笑い飛ばそうとしているのに、声が揺らぐ。律に伝わってしまう。
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