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ただ『やめてください』と言うだけで良かった。僕の言葉は凶器だ。言葉が刃になり航様を停止させて、不幸なことなど起こらなかったかも知れない。
でもこの時、僕は竦み上がっていた。
声が出てこない。気持ちは混濁したまま。
「可愛い理人。俺の可愛い理人——…」
弓弦様の前では何事もなかったように振舞う自分自身が滑稽で哀れで、僕は曖昧に笑った。
東京での目覚めは最悪だった。
久我が僕の為に確保したマンション、隣の部屋の住人は遅くまでテレビを付けているようでうるさかったし、道路に面しているせいで車通りも激しかった。元々野山の麓にあるような屋敷で暮らしていた僕には、都会の喧騒が寝苦しい。
うるさい、と隣の人に怒鳴ってやろうかとも思ったけれどやめた。昔、僕をいじめた大人に同じことを言ったらその人は数か月口が利けないままだったことがある。同じようなことをしてはいけない、僕の言葉は凶器なのだ。肝に銘じなくては。
「おはよう、理人」
「おはようございます弓弦様……」
僕がぼうっとしていると、弓弦様が色んなものを持参してやってきた。
よく見ると壁に取り付けられている時計は真新しく、約束の時間よりも一時間早い八時を指し示している。弓弦様はどこかで買い物をしてきたらしく、何も言わずキッチンのコンロに火を付けて何かを作り始めた。
「わ、美味しそう……!」
「これ、俺からの引っ越し祝いな」
そう言って弓弦様がくれたのはフライパンと鍋、電子レンジだ。
「他にも必要なものがあるだろうからこれから見に行くぞ」
「あ、あの、久我から支給されていたものがあったと思うんですけどそれは……」
洗濯機とか掃除機とかテレビとか……。
「ああ、あの胡散臭いやつか。あれなら式神が張り付いていたから丸ごと廃品回収に出してやったぞ」
「ええっ!」
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