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変異
ピンポン、とドアホンが鳴った。
おかしい、弓弦様には合鍵を渡している。引っ越してきたばかりで僕の元に訪問してくる人なんて、誰だろう。僕は本能的な恐怖を感じてインターフォンに出るのを少し、躊躇った。
暫く時が過ぎ去るのを待った。
僕は素人なりに久我の屋敷で怪奇と対面している。幽霊や妖怪、そういう者たちのことを少なからず知っていた。
だからこそ分かる、これは反応してはいけない。
「理人」
名前を呼ばれた。若い男の人の声だ。
その声が懐かしいものであることと、僕が何故東京に来たのか思い出して――…僕はぞっとした。玄関ドアの覗き窓からそっと向こうを見る。
見るだけ、ドアは開けない……そのつもりだった。
そこには黒い塊が立っていた。
湾曲したガラスで歪み、捩れた襤褸切れのような醜悪な存在。それが僕の部屋の前にぼうっと立っているのだった。
「理人」
「あ、貴方は……」
僕の名前を呼んでいる。
その人が、ソレが何者であるかようやく僕は理解した——…これは航様だ。
「……ひっ」
僕は心の中で葛藤を始めた。
誰か助けを、誰に?
そうだ、弓弦様に……弓弦様だったら航様を追い払えるかもしれない。ここまで考えたところで気付いた。僕、航様を探してくるように命じられたけれど、本当は航様に会いたくなかった。
怖い。
航様が死んだ時、僕は少しだけざまあみろと思った。
僕に嫌なことをした人が僕の呪いで傷つくたびに、僕は同じ気持ちになる。空虚さが堂々巡りする。
「——理人!」
まもなくして、弓弦様の声がした。
「ゆ、ゆず、る?」
ぎこちなく音声を発するソレは、まるでもう何年も発したことのない異国の言葉を発する時みたいに、弓弦様の名前を呼んだ。
ぬっ、と黒い塊が大きくなった。
一歩僕のいるドアの方へと進んで近づいたのだ。覗き窓越しに肌色が見えた。黒いのは髪と腕で、他は腕や脚のきちんとある生き物だ。顔が髪の毛で覆われていて表情も見えない。
「あ、あああ、あ、ゆ、ゆず……」
「航様……どうして……」
まるで言い訳するように航様——目の前の化け物は弓弦様のいない方へと、たじろぐ。
僕は冷や汗をかいたまま事態の深刻さに気付いた。見つけた、航様を。でもちっともめでたくない。
航様はもはや人間であるようには見えないし、呪いを受けて育った化け物だった。
「何しに来た、立ち去れ!」
弓弦様がそう言ったことだけは覚えている。その後の記憶は曖昧だった。
すっかり僕は放心していたようで、気が付くとソファーの椅子に座っていた。
「あ、あれ……? 弓弦様?」
「ああ、気が付いたか」
僕はどうやらソファーに寝かせられていたらしい。毛布が掛けてある。キッチンからはいい匂いがして、ぐつぐつと鍋の煮える音がした。夢でも視ていたのかな……と逃避する僕に、弓弦様が優しい声で言う。
「覚えてないか? お前が来ないでくれって言ったら、兄貴は跡形もなく消えちまった」
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