犬神のイチ

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犬神のイチ

あくる日、僕はいったん自分の自宅に戻った。 また航様が来るかもと思うと怖くて落ち着かず、一心不乱に片づけをしていたら弓弦様から誘われた。 昨日の夢のことがあったので僕はちょっとだけバツが悪く、初め弓弦様から電話があった時ギョッとしてしまったけれど……弓弦様から会いたいと言われたのは嬉しかった。 「お前に紹介したい妖怪がいるんだ」 澄んだ藍の夜は、少し寂しい気持ちにさせられる。この街の空には星がないからだ。 「僕に?」 夜の街は忙しない。 信号待ちの交差点を行き交う人々は、サラリーマンも学生もみんな疲れ果てて見える。静かに冷たい夜のとばりに、みんなあたたかい場所を目指して帰っていく。幼児が痛みを学習するように、僕は知り始めてしまった。 僕は、今でも弓弦様のことが好きだ。 好きで、好きで――…どうしようもなくて。 弓弦様と同じ場所に帰りたいのだという気持ちは、きっと恋だ。 「今日は新しい大学を見学して来ました。郷土史に興味があったので、ちょっと遠いですけど」 「お前、郷土史なんて随分小難しいこと勉強するんだな」 「妖怪の歴史とか、そういうのは大抵災害が関わっているそうなんです。面白いなぁって」 何気ない会話にも僕の心は浮足立って、車で弓弦様の事務所まで向かいながら、僕は弓弦様の運転する横顔にときめいていた。こうなってくると空気の色や月の形、夜空の藍まで特別になる。ビルも街灯も目に入る全てのものが切なく光る。 「今日は満月なんでしょうか?弓弦様、こっちでも月は同じように綺麗ですね」 月は高く明るく、僅かに灯った星すらかき消して夜空に渡る。まん丸い満月だった。雲に隠れてはまた姿を現し、木々のシルエットが切り絵のように過ぎ去っていく。車中からの風景は僕にとって楽しいものだった。ふっ、と弓弦様の笑い声が響く。 「そんなに月に夢中になるなんて、お前は変わらないな」 「そうですか……? でも、とっても綺麗です」 渡されたペットボトルのお茶を一口飲み、弓弦様が適当に流しているラジオ放送を聴く。流れているのは流行りの音楽なんだろうか、どんどん子守唄のよう聴こえてきて、じっと流れていく景色を追う。なんだかドライブしているだけなのに、何もかもが夢みたいだ。 「寝てもいいぞ。着いたら起こしてやるから」 「はい……」
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