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「本当は俺のものにしたい。でも、お前には自由でいて欲しい。どっちも本当の俺だ」
「僕も、弓弦様のものになりたいです」
僕の背中に触れている弓弦様の大きな手、僕がそっと瞳を閉じるとキスをされた。長い、長いキス。永遠みたいに長い口づけに、涙が出そうになった。
いつまでそうしていただろう。
ガチャ、と事務所のドアが開く音がして、僕は現実に引き戻された。
「今の音……」
「あー、イチが帰ってきたな」
弓弦様は一気に不機嫌になってしまった。
イチは可愛らしく麻で出来たカバンを斜め掛けにしていて、その中身には野菜やお饅頭がゴロゴロ入っている。稲成さんと一緒にお買い物に行くといつもオマケにお饅頭を持たせられて微笑ましい。
最初は鼻をフンフン鳴らしてご機嫌な様子だったが、弓弦様に睨まれて事態を察したようだ。
「ひんっ! すみませぬ若様……お取込み中とは知らずっ!」
「ああ、全くだイチ、お前の耳は何のためだ?主人の情事を邪魔しない為じゃないのかっ?」
「ひょわ~! お耳を揉まないでくだされっ!」
イチが来ていなかったら僕はもっと弓弦様とキスしていたんだろうか……そう思うと僕もイチの可愛い耳をグリグリしたくなった。でも、つい弓弦様とイチのやり取りを見ていたら自然と笑みがこみ上げてくる。
「ふふっ、仲良しですね」
僕はその日、眠れなかった。
世の中、したのとしていないのとは全然運命が変わってしまうこともあって、僕にはそれがあのキスだった。
夢だったんじゃないか、そう思うと眠るのが怖い。
闇の中を遠ざかっていく船をひとり見送っているような気分だった。それでも心は切なくときめく。甘い味のする闇、気が付くと僕は弓弦様の唇を想っている。滑り込ませた胸元の、頬に触れる感触。
あんなに確かなことはない。もう一度あんなキスが出来るのなら、全てを投げ出してもいいとすら思う。
それなのに今、僕は孤独だ。
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