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彼は幸せを生きている。当然の権利として。
どんなに新しいことを学んでもその域を出ないように教育され、守られている。
恐らくは、温かな両親に。
幸福とは、自分が実はひとりなのだということを感じなくていい人生だ――と僕は思う。いいな、と思う。綺麗に磨かれたキッチンに並ぶ温かな食事に、花のような笑顔、美しくて優しい夜。生まれも育ちもなにもかも、僕は嫌悪してしまう。自分の人生を何もかも嫌って、ぞっとする。
でもあの至福な弓弦様の部屋で過ごした瞬くような夜、僕は何も怖くなかった。
次の日怖いことが待っていても弓弦様がいてくれるということは僕の支えだったし、弓弦様はいつも僕に外の世界の話を聞かせてくれた。そして今、僕は夢にまでみた久我の家の外にいる。
命がけで出て来た都会は思っていたよりも忙しなく、でも何も辛くない。僕は弓弦様の離れにいる以外にも楽しいことを沢山見つけてしまった。
闇の中、切り立った崖をじりじりと歩く。明るい道に出てホッと息を吐く。もうたくさんだと見上げた月明かりの、心に染み渡るような美しさを僕はもう知っている。
僕は高城さんに自分の学んできた術を教えて、決戦の日に備えた。
「人に何かを教えるのは勉強になるだろう?」
そう弓弦様に言われて、僕は大きく頷いた。
「そうですね。でも僕、どうしても高城さんをこっち側に誘いたくなってしまうんですよね。高城さんが優しいから、身内でいて欲しいのかな……」
「そんな風に自分と他を線引きしなくても、お前はこれから色んな人と仲良くやれるさ」
優しく言われて弓弦様に抱き締めて欲しくなったけれど、何と言っていいのか分からなくて僕は口を噤んだ。口にしたら、全然思っていたものとは違う言葉が飛び出た。
「僕、死んだら地獄に落ちるのかなぁ」
大丈夫だ、と弓弦様の微笑んだ声がした。
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