ギルバートの話

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*** 兄とおれの生活に陰りを見せるマトリ。 未だに謎の多い彼らを本当に恐れるようになったのは、それからまたしばらく経つ。 『さてハロウィンも近づいていますが、皆さんは今、若者を中心に"ヴァンパイア"が流行っているのをご存知でしょうか?というのも…』 ブツッと、テレビの電源を落としてにこやかなアナウンサーを消したのは最早衝動だった。まさに反射のようだったけど実際おれの心はここに在らずで、それから暫くは呆然と立ち尽くしていた。 今流行りのヴァンパイア? 何を言わんとしているかがなんとなく想像がついてしまって、怖くなる。 他人の血を吸う兄は、そこに関係しているのではないか? なにせ兄は、あの後も何度か他人の血を吸っているのだから。 この目で見たわけではないが、警察署には吸血鬼を見たという目撃情報が確かに上げられていた。 今の所被害者からの通報も無い上に信ぴょう性も薄いとして、署内ではイタズラとして処理されているが、他人の生き血で生きる存在を知っているおれにはそれが兄を指しているものだとすぐに分かった。 今でこそ悪戯、でもこんな通報が続けば警察だっていつかは動くだろう。だからその度におれは兄を咎め、言葉を重ねて説得してきたつもりだった。 なんでそんな事をするの、 マトリに見つかったら殺されちゃうんだぞ、って。 兄は言った。お腹が空いたから、とだけ。 マイペースな兄の事だから、欲を満たす為なら自身を危険に晒そうと何ら構わないのだろう。でもおれはそんなの嫌だから。ほぼ口論となり最後には暴力となって終わっていた兄への忠告が、少しでも響いていると信じたい。 それにアナウンサーは時期ものだと言っていた。ヴァンパイアなんてハロウィンにはベターな組み合わせなのだから、それを全て兄に結びつけるのはいささか強引すぎやしないか? …でも、もう一度テレビをつけて確かめる勇気はなかった。 漠然とおれは予感していたのだろう。 取り返しのつかないところまでもう流されてしまっているのだと。だからどんなに自分に言い訳をして宥めようとも焦燥感が止まらなかった。 ……おれ、今の今まで何してたんだよ? フラフラと、出勤前の忙しない朝だというのにおれはソファーに崩れ落ちるように座った。その振動で目覚めてしまったのか、ソファーで眠る兄が舌打ち付いて毛布を頭まで引っ張りあげる。 「…バッティ、ほんとクソだなお前」 眠そうな声で言い残し、ヴァンパイアと呼ばれる当の本人はまた寝息を立て始めた。 どうしてこんなにも余裕でいられるんだよ。 「…兄ちゃん、もう人の血なんて吸ってないよね?」 「……」 「兄ちゃん、ねえ」 「眠い…」 「ねえってば!答えろよ!」 毛布にくるまった兄を揺すって縋った。吸ってないって、たった一言だけが聞きたい。その一言でおれを安心させて欲しかった。 でも寝起きの悪い兄の事だから、睡眠を邪魔するうるさいおれが心底耳障りだったのだろう。舌打ちを合図にむくりと起き上がると突然、おれの胸ぐらを掴んできた。気だるそうな動きに反して腕の力はびくともしなくて、逃れようともがいた隙に一発拳が命中する。 「ぅあ……」 「兄ちゃん兄ちゃんガキじゃねぇんだからさぁ。寝てんだよこっちは。大人しくできねぇのか」 痛みなのか、殴られたショックなのか、切れた口から血が滲むより早くおれの目には涙が溢れて落ちた。兄は酷くうんざりした顔をする。 「こんなんで泣くなよ、男だろ」 きっとおれは今、後悔しているんだと思う。 いつもおれは事が終わった時にその大きさを知る。 おれは何でも詰めが甘くて、兄をちゃんを止められていなかった。そのせいで、おれの危惧する嫌な想像が現実のものになってしまうかもしれない。 このままでは兄が、マトリによって報復を受けてしまう。でも止めようと言ったって、兄はいつも聞く耳を持たず邪険にする。殴り合って止められればいいのに、痛みは今までに味あわせてられた恐怖を呼び起こしておれの決意をこうも簡単に砕く。 「なんでいっつもこうなっちゃうんだよ…」 一回落ちた後悔は止まらなくて、ぐすぐすと情けなく鼻がなった。 泣いてもどうにもならないと既に理解しているのに、だ。 「バッティ」 「ねえ兄ちゃん、人を襲うの止めてよ。こんなに話題になってちゃヤバいって、兄ちゃん分かってるでしょ?」 「はは、それって俺が我慢する理由になんのか。殺されるからなんだよ?」 おれを嘲笑う兄は、少しの希望すら抱かせようとはしてくれない。 「別に殺されてぇとは思ってねぇけどさ、したい事出来てんだったらそれでいいだろうが」 「どこがいいんだよ!」 「責任がついてまわるだろってだけの話だよ」 「意味分かんねーよ…。ねえどうして分かってくんねーの?」 「は?」 「おれの話聞いてくれてもいいじゃん、兄ちゃんの為に言ってんだよ」 「ああ…もうさぁ」 「おれはただ兄ちゃんとずっと居たいだけなんだって!」 「だから本当にうぜぇよお前!」 大声にビクリと身体が硬直する。構える間もなくまた一発。殴られ胸ぐらを掴まれている。 おれを見下ろす兄の視線は、言葉以上に冷ややかなもので嫌悪がありありと伝わってきた。 「皆が皆、てめぇの都合で動かねぇんだよバッティ。あんまヒスってんじゃねぇぞ」 囁くような低い声は、おれを震え上がらせるのには十分すぎて、おれは唇を噛んだ。口に鉄の味が広がるのをぼんやりと感じながら、おれは恐怖から目を離せないでいた。目を離したら殺されそうな気さえするのだ。 「兄ちゃんと居れればてめぇは満足なんだろうけどさぁ。俺の人生はてめぇの飾りか、あ?」 「そ、そんなん思ってない…おれは、ただ兄ちゃんの為に!」 「俺の為?本当か?考えてみろよバッティ。…全部てめぇの為だったろ?」 暴力よりも耐え難い、敵意を剥き出しにして睨みつける兄の視線は、おれに対する何よりの拒絶だと思う。どんなに兄の為に尽くしても何を捧げても、受け入れてもらえない気がした。 まただ、また、兄にかけたい言葉が喉の奥で溶けて消えていく。 「もうだんまりかよ」 「……」 終わらない争い程恐ろしいものはない。 でも兄は絶対に道を譲らない人だから。おれは折れる為に兄から目を逸らした。 おれ達はこんな泥沼な口論をする度に、あの頃が頭の片隅に蘇っていると思う。兄が犯罪者集団の一員となった頃のあの喧嘩の絶えなかった日々を。 危ないことをしないで、大人しくしていて、 普通に戻って、昔の優しい兄ちゃんに、 マフィアの道を選んだ兄になんとか止まって欲しくて何度も何度も説得を試みるおれに、兄は今のように暴力で黙らせた。でもおれも当時は警察に成り立て、引くに引けないものがあって、今以上に落ちどころのない喧嘩をしてお互い憎み合っていた。 だから分かるのだ、どんなに普通に会話出来る関係に戻ろうがそんなの建前でしかなくて、一枚捲れば兄にはおれに対する敵意と積もり積もった憎悪がある。それを垣間見た時におれは、拒絶される事が怖くてそれ以上踏み込めなくなってしまう。 今もまた兄を止める必要があるのに、そもそも兄がこの家から出ていく最悪を回避する事で精一杯だ。 「あーあ、もったいないことすんな」 少しは険のとれた声色で兄は言う。 なんの事かと思えばベロっと口の傷ごと血を舐め取られるのだから、喉の奥から悲鳴が漏れた。 舌に居座るピアスの冷たさがまた嫌な感触で、最悪だ。 「うぇ…」 「あは。てめぇの仕事は終わったろ。ほらさっさと行けよ」 失せた興味がそのままに、パッと掴まれていた首元が解放されておれはよろける。兄はと言えばいつものソファーに戻って煙草に火をつけついでにテレビもつける。 ニュースはもう、吸血鬼の特集を終えたようだった。 「ねえ、兄ちゃん」 制服を正し、血の跡が残る口元を洗って、最低限の身支度をして家を出る前にふと振り返りおれは兄に声をかけた。その頃にはもう兄は煙草をすっかり味わい終えてまた眠ろうとしていたようだ。 何も言わない兄におれは続ける。 「人を襲ったの、腹すいたからって言っただろ。 足りないならおれがもっと血あげるから。だからお願いだ、もう人を襲わないって約束して」 「考えとくよ」 「…絶対だからね」 「さっさと会社行けよ、遅刻すんぞ」 兄はただ、タトゥーだらけの手を振っておれを見送った。
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