第一章 眠れぬ夜の記憶

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第一章 眠れぬ夜の記憶

(1)  東の外れ、午前二時の歓楽街――。  今夜もうひと稼ぎして明日の飯の心配を取り除いてから、湿気た黴臭いねぐらに潜り込もうと企む男たちが、ゾンビの群れのようにフロントガラスの前を横切っていく。  馬車通(ばしゃどお)りと牡丹橋通(ぼたんばしどお)りが交差する四ツ角のビル壁面に日本語で書かれた〈客引き禁止〉の貼り紙。しかし誰一人気にする様子はない。ハナから見ちゃいない。何故ならゾンビたちは日本語が読めないから。奴らは決まり切った簡単な日本語しか話せない。 「オキャクサン、フィリピン、イイコ、イル」 「ロシア、ルーマニア、キンパツ、サービススルヨ」 「オニイサン、マッサージ、キモチイイ、マッサージ」 「ラスト、キャバクラ、もう一軒、いかがっすか」  二〇十五年六月――。その晩、俺は漆黒の日産エルグランドを牡丹橋通りの細い路地、居酒屋とタイ料理屋のはす向かいに停めた。  夕方から激しく降った雨は日付が変わる頃にはあがっており、アスファルトの水溜まりがネオンを鈍く反射して揺れていた。窓を僅かに開けると、キャメルの紫煙と入れ違いに湿った空気が流れこんできた。  錦糸町南口(きんしちょうみなみぐち)には二棟の場外馬券場『ウィンズ』がある。どちらも堂々たる大きさの近代的なビルだ。その二つのビルに挟まれるようにして『丸井(まるい)デパート』があり、裏手にはネオン賑やかな飲み屋街が広がっている。  また東側には『楽天地(らくてんち)ビル』があり、その向かい側に花壇街(かだんがい)と呼ばれるもう一つの歓楽街があった。そこにはやや癖のある飲み屋や昔ながらの風俗店、そしてラブホテル街が犇めいている。  錦糸町は昔から治安が悪いと言われてきた。ヤクザが多い街だと言われてきた。最近はそれよりもっと悪い。誰かが考えている以上に危険な街になっている。  男が一人、足を止めてこちらをじっと見ていた。日本人か韓国人、あるいは中国人。男は目を細めて値踏みするように、そしてからかうように俺を見ている。その目の中にあるものが敵意なのか、好奇心なのか、この距離では掴めない。  俺は男から目を逸らさずにフィルターまで焦げ付いたキャメルを指で弾き飛ばした。水溜まりに落ちた吸殻に男は一瞬だけ目をやり、すぐさまこちらに視線を戻した。  その時、助手席の窓にノック――。こちらを覗き込む鼻ピアスの坊主頭。俺は窓を下げて男が開いた手書きのノートを覗き込んだ。そこに書かれているのは幾つかの名前と幾つかの住所。 「今日は五人。ラストは南行徳(ナンギョウ)。……で、何キロ?」  坊主頭はぶっきらぼうに言い放ち、生気のない目を向けてきた。開いたワイシャツの胸元から色彩鮮やかな刺青が覗いている。俺はエルグランドの走行キロ数を伝えた。  坊主頭はノートに書き加え、左手の贋物臭いサブマリーナを確認してまた何か書き足した。今夜何キロ走ったのか、何時間走ったのか、奴等は常に管理したがる。管理されるのが嫌で社会をドロップアウトした連中が、俺にルールを押し付けて来る。  坊主頭はノートを戻し、すぐに降りてくるからと言い残して、ビルの中へと消えて行った。前方に視線を戻すと先程の男はもう消えていた。  窓を締めてノートに書かれた内容を確認する。押上(おしあげ)平井(ひらい)船堀(ふなぼり)葛西(かさい)南行徳(みなみぎょうとく)――。千葉県まで含まれているのが厄介だが幸い下り方面だけで上りがないのは助かる。先週は一旦、本八幡(もとやわた)まで下ってから北千住(きたせんじゅ)へ向かった為、錦糸町に戻って来られたのは朝の五時に近かった。  しばらくして坊主頭が女を二人連れて戻って来た。一人は細いジーンズと黒のキャミソール。もう一人はデニム地のミニスカートにベージュのゆったりしたトップス。  二人とも片手にブランドものハンドバッグ、もう片手に携帯電話を持っている。ドレスに合わせてセットしたままの髪型がカジュアルな服装と不揃いで妙に浮いていた。  女たちは挨拶もなく車に乗り込んで来ると、遠慮なく二列目のシートに座り、すぐに悪態をつき始めた。度を超した香水が鼻につく。 「アイツ、くそ使えねえ」 「でしょ! 今時、和彫りとかマジありえねーし。筋モンだってやらねっつーの」 「死ねよ、マジで」  それが坊主頭に向けられたものか、それとも別の誰かに向けられたものかは判断がつかない。女たちは自分が吐いた汚れた言葉に興奮し、下卑た笑い声をあげた。  少し経ってから別の女が三人出て来た。先の二人同様、私服とヘアスタイルの不協和音が痛々しい。  おつかれ――。そう言いながらやはりきつい香水の匂いと共に車に近付いてきた太めの女は、先に乗車したミニスカートの女が一旦車から降りて、二列目シートを先方にスライドさせるのを待ってから、三列目の奥に倒れ込むようにして座った。  続いて五人の中で最も小柄なワンピースの女が後部座席の残りの隙間に潜り込むと、ミニスカートはお役目御免とばかりに自分の席をスライドさせて元の位置に収まった。  残された――、恐らく一番年上の痩せた女は遠慮がちに車内を伺っている。エルグランドは一列目から二席二席三席の計七人定員だが、三列目へのゲートはたった今、閉じられたばかりだ。痩せた女の視線に気付いたのか、最初に悪態をついていた女が聞こえよがしに言った。 「ボケっと突っ立ってんなよ、バーカ。前が空いてんじゃん」  他の女たちが冷ややかに笑った。痩せた女は慌てて助手席のドアを開けて乗り込んで来た。  俺は黙って坊主頭を見つめた。送る人数は最大五人、助手席には乗せない。それがルールだった。けれど坊主頭は視線を逸らし、何食わぬ顔で女たちを見送った。  痩せた女は俺と目を合わすと小さく会釈した。俺は諦めてギアをドライブに入れる。ゾンビの群れが怠慢な動作で車を避けて行く。  後部座席の女たちは今夜の客について悪し様に罵り始めた。脇の臭い客。口の臭い客。手の甲を尻に当てて素知らぬ顔をする客。毎回一人で来て小柄な女を何時間も独占し、よくわからないアニメの話を延々とする客。延長時間を気にして時計ばかり見る客。  女たちは品のない笑い声をあげながら次々に客を罵倒した。彼女たちに言わせればキャバクラに来る客にまともな男などいなかった。  名古屋から出張で来た中年サラリーマンから携帯電話の番号とホテルのルームナンバーを書いた名詞を渡されたと、キャミソールの女が吹きだしながら言った。 「ありえないっしょ、行く訳ねーじゃん。部長だか次長だか知んないけどさ、マジ勘弁。デリヘルでも呼んどけって」 「ウケる――。ありがとー、行けたら行くねーとか、ぶってた癖に」 「ウチは基本、営業スマイルだから」 「どうせなら行って、十万くらい取っちゃえばいいじゃん」 「いやー、無理! マジ無理! 百万貰っても吐く」  この先、成長してもっと大人になって、どれだけ心を入れ替えたとしても、彼女たちには既に落としきれない量の垢がびっしりとこびりついている。あと何年かしてその僅かな美貌が衰え、男たちが誰一人振り向かなくなったその時、彼女たちにいったい何が残るのか、そう考えると不思議と不快感は消えていく。  誰かがリモコンを操作してテレビをつけた。断りもなく勝手に触られるのは気分が悪いが、振り向いて抗議する気にはならない。言葉を交わしたくもない。  運転席のモニターはナビのままなのでテレビ画面は映らないが、どうやら通販番組が流れているようだ。この時間は大抵そればかりだ。仕事にあぶれたベテランタレントが恥も外聞もかなぐり捨てて通販番組の司会を引き受けていたのは既に過去の話だ。今では割の良い、極普通の仕事になりつつある。  女はリモコンを操作して落ち着きなくチャンネルを変えた。他局も同じような通販番組ばかりだ。その内、派手な音楽に反応するようにザッピングが止まった。テレビ局が後援についたコンサートのコマーシャル。速く重いリズムに伸びやかな歌声が重なっていく。 「あたし、ICE(アイス)超好き!」 「わたしも。iPod(アイポッド)で『スキャンダル』ヘビロテだし」 「ICEってくっそエロくない?」 「エロい。ぜってー、ヤリマンっしょ。枕営業(マクラ)で伸し上がったタイプだよね。でも好き」  ICE。氷の歌姫――。シンガーとして若い世代を魅了し、個性派女優としてハリウッド進出も噂されているトップクラスの女性アーティストだ。  恐らく今、テレビ画面に映し出されている彼女は素顔がわからぬほど派手なメイクを施し、その磨きあげられた肉体を必要最小限の布地で隠しているだけだろう。巷では最近流行しつつある若い女の露出過多な服装を称して〈ICE症候群(アイスシンドローム)〉と呼んでいた。俺は一瞬だけ彼女の無垢な笑顔を思い浮かべて、すぐに消した。  押上でキャミソールの女が、平井で小柄な女が降りると車内は一時静かになった。女たちは通販しかやらないテレビに幻滅して電源を切っていた。バックミラーには携帯電話のライトで顔を照らされた二人の女が、まるでホラー映画の亡霊のように映し出されている。助手席の痩せた女は窓にもたれ、流れゆく景色をじっと眺めていた。  やがて船堀で太った女が、葛西でミニスカートの女が続けて降りた。これまで四人が四人とも家まで送られたことに対して、礼らしい礼を言わなかった。ただ虚ろな目で虚空を見つめ、暗闇に潜む誰かに向かって「お疲れ様」と呟き、暗闇の中へ消えて行った。  二人きりになると助手席の女は携帯電話をバッグに仕舞った。車は環七をUターンし、葛西橋通(かさいばしどお)りから浦安(うらやす)方面へと右折した。 「私、あの子たちと合わなくて――」女は唐突に話し始めた。「自分勝手な子ばかりで裏表も激しいし」  俺は黙ったまま。前を向いたまま。 「まだ四日目だけど、この店はもう無理って感じ」  女は金色のハンドバッグから細長いメンソールを取り出して、吸っても構わないかと尋ねてきた。これまでにも何度となく煙草に火を点ける女たちを注意してきた。だから車内は禁煙という理解を得られているものとばかり思っていたが、痩せた女は初めての乗客だから知らなくとも無理はない。  俺はやんわりと断った。受けた仕事は家まで送ることだけ。吸い殻もゴミも何一つ残していってほしくない。女は小さな声でごめんなさいと呟くと、すぐに煙草をバッグに仕舞った。車は浦安橋を越えて左に折れた。 「あの、お名前、聞いてもいいですか」  痩せた女の視線が左頬に感じられた。 「名前? どうして?」 「ドライバーさんじゃ、なんとなく味気ないから」  これまで何人もの女を乗せて送ってきた。けれど名前を尋ねられたことは一度もなかった。ほとんどの女はドライバーさん、送りさん、運転手さん、運ちゃん、そう呼んだ。  名前――。どうでもいいことだ。聞いたところですぐに忘れるだろう。それにこの女とは二度と逢わないかもしれない。だから答えた。 「黒木。……黒木鐘一(くろきしょういち)」 「へえ、黒木さんね。下のショウイチってどういう字?」 「ショウは寺の鐘。それに数字の一」 「鐘に数字の一。いい名前ね。黒木鐘一さん。はじめまして、私は高沢恵美(たかざわえみ)です。あっ、源氏名じゃなくて一応本名だから」  女は人懐こい笑顔を向けて来る。ノートには確か〈彩花(あやか)〉と書かれていた筈だ。 「年齢は? あ、ちょっと待って、当てるわ。……そうね、三十五くらい?」 「いや、違う。もっと上。もうすぐ四十一になる」 「四十一歳? 本当? 嘘、全然アラフォーには見えないって。絶対、三十代前半で通せるよ。うん」  見え透いたお世辞。まるで仕事の延長だ。そこで女はしばらく口を閉ざした。考えなしに年齢の話題を切り出したことを後悔しているのだろう。お願い私には聞かないで――。痩せた横顔にそう書いてあった。そして案の定、高沢恵美はやや唐突に話題を変えた。 「私ね、昼間は保険の仕事をしているの。だからこの仕事はそのコネ作りと思っていたんだけど、ちょっと職場環境、悪過ぎかな」そこで女はこちらに目を向けた。「鐘一さんはどうしてこんな仕事をしてるの?」  名前、年齢、続いて動機――。こんな仕事?   女は何食わぬ顔をして、土足で踏み込んで来る。俺は力なく笑って僅かに首を傾げた。その理由は自分自身でも良くわからないのだと。 「仕事はこれだけ? 昼間は他の仕事もしてる?」  俺はこの〈(おく)り〉の前に別の仕事をしている。しかしそのことをいちいち説明する気にはなれなかった。 「ああ、いろいろと、適当に」 「じゃあ、私と一緒ね。毎日、この時間は眠気との戦いでしょ」  曖昧に頷いて、曖昧に笑い、ナビに従って南行徳駅前を左折した。  よく喋る女。鈍感な女。職場で折り合いの悪い女。水商売を心のどこかで蔑み、そこで働く女たちをも蔑んでおり、その結果、爪弾きにされて、邪険にされ、被害者意識の塊になっている女。やはり二度と逢うことはないだろう。  カーナビは古びたマンションの前で目的地に到着したことを告げた。女は何か言いたそうな顔をして俺を見た。もしよかったら――。その言葉を遮るように、着いたと伝える。 「お疲れさま。ゆっくり休んで」  女は不当に傷つけられたような顔をして車を降りて行った。  俺は気を取り直すと錦糸町に向けて車をスタートさせた。カーオーディオを操作し、マイルス・デイビス『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』をセットする。  マイルスのトランペットがレッド・ガーランドのピアノとシンクロして、ささくれ立った神経を緩やかに鎮めていった。ジョン・コルトレーンのテナーサックスが甘く優しく響き、感情の鼓動を安定させる。  車窓に夜が流れていく――。高沢恵美と名乗った女の不躾な質問が頭に浮かぶ。  どうしてこんな仕事をしているの?   その答えは一つしかない。眠れないからだ。毎晩、俺は眠れないから、一晩中こうして走り回っている。そして無様にのたうち回っている。
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