第四章 弔いの街

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(5) 「どうも、ご無沙汰してます。趙佳一(チャオジャイ)です。……趙佳一(ちょうけいいち)です」  驚いた――。男は最初に〈チャオジャイ〉と名乗った。趙佳一。元黒龍會幹部。そのあまりの変貌ぶりが俄かに信じられなかった。  かつては百三十キロを超す巨漢を誇り、傍若無人の暴力マシーンとして錦糸町界隈で最も恐れられた男の一人である。  趙が相棒の尹明輝(ユンミョンホ)と共に張龍傑の右腕として錦糸町を仕切り、常に睨みを利かせていたからこそ、他の中国マフィアやチンピラが悪さをすることもなく、ある意味街の治安が守られていたとも言えた。  俺は立ち上がり、趙が差し出した右手をすぐに握った。 「驚いたな。本当に趙か――。随分変わったから分からなかったよ。久しぶりだ。本当に久しぶりだ」  趙は握手した右手に左手を添えながら、周囲を気にした様子で「どこかで話せませんか」と言った。  俺が頷くと、趙は宗教団体のリーダーらしき年配の女性に何かしら断ってから、俺より数メートル先を歩いて行った。  途中、薄暗いトンネルを抜けて、ファストフードやラーメン屋が建ち並ぶ駅の反対側に出た。  錦糸町駅北口――。こちらに出ると、どの通りからも堂々としたスカイツリーが望めた。このあたりは駅から離れれば離れるほど高い建物は少なくなり、昔から変わらない飲食店や飲み屋が軒を連ねている。  趙が案内したのは一軒の古ぼけた喫茶店だった。店に入ると甘く香ばしい匂いが立ち込めている。ホットケーキだ。カウンターの中で小柄な老人が一人、せっせと焼き続けている。 「自分は昔からここのホットケーキに目がないんです。黒木さんもいかがですか」  俺は苦笑いして首を横に振ると、水を運んできた女性店員にブレンドを注文した。昔ながらのサイフォン式コーヒーだと言うことは店に入ってすぐに気が付いた。  趙は残念そうに頷いて、アイスカフェオレとホットケーキを注文した。そして自分の置かれた環境について、ぽつりぽつりと話し出した。  趙は今、南砂町(みなみすなまち)のキリスト教系の団体に世話になっていると言う。刑務所収監中にキリスト教に帰依し、出て来てからはボランティア活動の手伝いをするようになったのだと。 「しかし随分痩せたんだな。まるで別人だ」 「中に三年にいて二十五キロ近く痩せました。出て来てからは約二年になりますけど、今度は体調を崩したりして更に十キロ落ちましたから、計三十五キロ減って今は九十三キロです」 「三十五キロも――」そこで俺は声を少し抑えた。「でもなぜ中に?」 「窃盗(タタキ)です。あの頃、老大(ラオタ)に言われて窃盗団を指揮してたんです。稼ぎが足らないから、東北から関西まで回って盗めるものはなんでも盗んで来いって――。そう言われて荒稼ぎですよ。でも茨城の質屋に入った時に防犯カメラにばっちり映っちまって」  俺は思わず周囲を警戒した。幸い他に客はいなかったが、いつ現れるかもしれない。趙はこちらの不安を見透かしたかのよう言った。 「この店に筋モンの連中はまず来ないです。入って来てもすぐにわかるし。大丈夫、安心して話せます」  確かにホットケーキを食べに来る裏社会の人間はそういないだろう。決して甘いものが嫌いな訳ではない。むしろ刑務所では糖分が貴重だから、収監されたことをきっかけに無類の甘党になった者も少なくないと聞く。  しかし渡世の人間、見栄や誇りが命より大切だ。人前で堂々とホットケーキなど食べられないのだ。  黒龍會が消えた後の錦糸町は案の定、新たなに組長となった日沖誠(ひおきまこと)率いる『英組』の天下になった。  同時に日沖は本家である『清澄一家』の執行部入りも果たし、現在は若頭補佐の重職に就いている。つまり次期若頭の筆頭候補であり、当然、未来の清澄一家総裁の座に向けて順調に階段を登っている最中だった。 「日沖は警察と組んで中国人一掃を仕掛けたんです。だからうちだけじゃなく東北グループも上海も福建も軒並みやられました。逮捕者や行方不明者、おまけに死人まで出て稼業(シノギ)も締め付けられるし、内輪揉めもキリがないしで――」  趙はこの何年かの間に起こった出来事を淡々と説明した。  尹明輝の側近として主に中国人売春グループを束ねていた三十二歳の木下義啓(きのしたよしたか)は、同じ錦糸町に断りなく出店した中国エステ店の店主男性を高圧的に脅し、店の備品を壊したり、男性の髪の毛を掴むなどの暴行を働いたとして、タイミング良く現れた警察官に恐喝の現行犯で逮捕された。  同じく黒竜會の若いメンバーに、錦糸堀公園近くに移転した闇カジノの警備を任せていた陳維嘉(チェンウェイジャ)と言う男がいた。  陳はその前の週に三十歳の誕生日を迎え、同じ日に婚約者だと言って同じ残留孤児三世の女性を龍傑に紹介したばかりだった。  その日、英組と思しき男たち数名が闇カジノに乱入し、ハンマーや鉄バットで店内を容赦なく破壊し、従業員にも危害を加えた。  その際、果敢に抵抗して重傷を負い、救急病院に担ぎ込まれた陳は二日後、脳挫傷により息を引き取った。警察はさして真面目に捜査する気もないのか、目撃証人は大勢いるのに未だ犯人は捕まっていない。  また西川口に馬荘(マーチュワン)と言う幹部がいた。主に地下銀行の送金を担当していた男で、張龍傑とは十代から付き合いがあり、信頼も厚かった。この男が二億円以上を着服して姿を消した。馬には以前から清澄一家との繋がりが噂されていた。 「二億円の損害――。それで龍傑は窃盗団を指示したのか。……でも意外だな」 「意外でも何でもないですって。老大は黒木さんに、自分たちの良い面しか見せなかったから、わからないかもしれないですけど、俺たちは普段から窃盗に裏ロム、詐欺、ぼったくり、恐喝、売春、美人局、そして覚せい剤。金になることなら何でもやってましたよ。黒龍會はそういう組織でしたから」  趙佳一はまるで洗脳が溶けたかのようにはっきりと言い切った。 「もちろん老大――、張龍傑(チャンロンジェ)のことは今でも尊敬してます。あの頃だってその気持ちは一切揺るがなかった。みんな老大の為なら死んでも構わないって、それくらいの覚悟はありました。何故なら老大も俺たちの為に命を張れる人だったからです。……でも黒木さんが現れてからというもの、黒木さんの前で堅気みたいに振る舞う老大を見ていて正直ちょっと気持ち悪かったです。……本当のところ」そう言って趙は弱々しく笑った。  確かに俺は心のどこかで張龍傑を美化していた。もしかすると龍傑はそんな俺の期待に応えようとしていただけなのかもしれない。  二人が共に立てる足場が必要だ――。いつか龍傑はそう語った。白でも黒でもないグレーゾーンが必要なのだと。俺たちはその足場を見つけられたのだろうか。もしかしたらあの時、俺が壊れさえしなければ、辿り着けていたのかもしれない。  その時、湯気を上げるブレンドと趙のホットケーキ、そしてアイスカフェオレが同時に運ばれて来た。コーヒーは芳しい香りを立てている。そのままブラックで一口飲むと、程良い酸味と苦味がバランスよく調和した。  趙は分厚く焼いて重ねたホットケーキの表面にマーガリンを塗り、六つに切り分けてシロップをたっぷりとかけた。そして待ちきれないとばかりに二枚重ねたまま一口で頬張った。 「黒龍會はそんなに金に困っていたのか」  趙は咀嚼しながら答えた。 「そうですね。上からの指示が日に日に厳しくなってましたから」 「上から?」 「そう、上です。池袋の福竜幇(フーロンパン)」 「福竜幇? 羅偉(ラウェイ)の?」 「そうです」  どういうことだ。福竜幇は単なる友好団体だった筈だ。確かに龍傑は羅偉を慕っていたが、それは錦糸町を譲ってくれた恩人だからではなかったのか。 「違いますよ。結構、勘違いしてる人、多かったですけど。……黒龍會は単なる福竜幇の下部組織に過ぎなかったんです。黒龍會が錦糸町を支配していた訳じゃない。あくまで福竜幇の代理として、錦糸町を管理していただけなんです」 「けれど龍傑は羅偉をあれだけ信頼していたじゃないか」 「羅偉という人は天性の人たらしですから――。老大を上手く操って、蛇頭から送られて来た不法就労者を押し付けて来たんです。おかげで俺たちは年中、中国の女たちに売春させて、男たちには窃盗団や裏ロム団を作って、そうやって仕事を与えていたんです」 「その事情を他のみんなはわかっていたのか」 「ええ、もちろん。でも間違っても老大に進言したりなんかしませんよ。俺たちは老大にやれと言われればやるしかないんです。疑問や質問は一切無し。まして反対意見なんて絶対に許されません」  それは歪で真っ直ぐな黒龍會の友情――。彼らにしか理解できない掟なのだろう。  趙はあっという間にホットケーキを食べ終えた。 「その後、龍傑と連絡は?」  すると趙佳一は黙って首を横に振った。あの時、諸橋健二は林健だけでなく龍傑の殺害も仄めかしたが、あれは俺を逆上させる為のブラフに過ぎなかった。あるいは諸橋の妄想か。 「上海から特殊部隊あがりの殺し屋が派遣されたと聞いて、すぐに身柄(ガラ)を躱したきりです。噂だと、父親の親類を頼って黒竜江省に渡ったとも聞きました」 「じゃあ、尹の居場所は?」  またもや趙は首を横に振った。 「俺が中に入っている間に消息を絶ったきりです」  他の仲間もほとんど消息が掴めないと言う。またこの何年かで、元黒龍會、あるいは中国残留孤児二世グループの幹部と言われる人間の逮捕が相次いだが、趙に言わせれば本物の幹部は一人か二人で、あとは顔を知っている程度の下っ端か、見たことも聞いたこともない奴が大半だと言う。 「そうやって黒龍會は破壊されたんですよ。今じゃその名前すら忘れ去られています。もう大昔の話ですよ」  そう言って趙は残ったアイスカフェオレを飲み干した。  終わったのか――、龍傑。本当に終わったのか。
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