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第一章 「クリスマスツリー」1
思い返せば腹が立つ。
ほんとに考えれば考えるほど怒りが増してくる。怒りが増せばさらに空腹感も増す。それに睡眠もよく取れてない。今日の体調は最悪だ。それでも仕事は疎かにできない。看護師として働くかぎりは、人の命を預かる仕事だと、いつも肝に銘じている。
地元の高校を卒業し、大学の看護学部で必死に勉強して、やっとなれた看護師だ。夢にまで見た仕事だからこそ、今日まで一生懸命がんばった。
しかし、夢であっても、現実は多忙で厳しいことが多く、総合病院に勤める看護師の仕事は、正直言って辛い。
うちの病院は三交代制で、日勤は八時半から十七時十五分まで、準夜勤は十六時半から翌一時十五分まで、夜勤は零時半から九時十五分までの勤務となる。
特に準夜勤の日は、ローテーション的に考えると、思うように時間を使えない。あとに仕事を控えた休暇というのは、中途半端な時間制限があり、ゆっくり休んだ気がしない。「仕事に慣れた」と言っても、健康管理をちゃんとしなければ体調を崩してしまう。
今日は日勤のローテーションだが、同僚が体調を崩したので、急遽交代することになり、準夜勤の当番が回ってきた。里田看護師長から頼まれると、予定があっても私的な事情なので、断ることなどできない。二つ返事は社会人として当たり前のことだ。
だから今日は準夜勤に合わせてゆっくり出勤すればいいはずだ。そのはずが、私は病院前の本屋さんにいる。それも勤務時間まで、まだ二時間半以上もあるというのに。
私はなにをやっているんだろう。部屋から本屋までの途中で、喫茶店かファミリーレストランに入って、ランチでも食べてくればよかった。怒りにまかせてバイクをかっ飛ばし、一気に病院まで来たのはいいけれど、高い病棟を見て、怖じ気づいたようにバイクを止め、逃げ込むように本屋さんへ入った。
大失敗だ。
こうなったのもすべて翔のせいだ。そうだ。翔が悪い。また怒りがぶり返した。
今日は朝から散々だ。いや十二時前に目が覚めたので、寝起きからと言った方がいい。そんなことはどうでもいいか。
昨晩遅くに来た翔を部屋に泊めたのがそもそも間違いのもとだ。
翔が突然飛び起きて、まだ眠い私を叩き起こした。
「詩織、起きろ。遅刻だ。もうお昼だよ。詩織」
「なに言ってるのよ。今日は準夜勤の当番だからもう少し寝かせてよ」
「準夜勤って」
「昨日の晩に言ったでしょ。私だって仕事の疲れが残る日もあるのに、『明日はゆっくり寝られるから』とか言って、夜中までつきあわせたくせに。まだ時間があるからもっとゆっくり寝かせてよ」
「忘れてた。あっ、予約の食べ物はどうするんだよ」
「仕方がないでしょ。仕事なんだから」
「仕方がないって、今日はイブだぜ。クリスマスイブ。日本語で言うと、聖夜」
「うるさい。そんなこと言われなくてもわかってるわよ」
私は背を向けて蒲団をかぶった。
「だってさあ、二人でクリスマスパーティーをするって約束しただろ。クリスマスツリーを飾ったり、ケーキを食べたり、トランプをしたり、クリスマスソングを歌ったりしようよ」
「ケーキまではいいとしても、そのあとのことは子どもじみてやってられないわよ」
「誰もが経験する普通のクリスマスをしようよ」
「無理なものは無理」
「冷たいこと言うなよ。なんだよ楽しみにしてたのにさあ。ひどいなあ。こんなの嘘つきみたいじゃない」
翔が私に聞こえる声でぶつぶつと文句を言い並べた。
「ああもうほんとにうるさい。いい加減にしてよ。寝られないじゃない」
「約束しただろ。今日はフライドチキンも予約したんだよ。安いやつだけどオードブルセットも注文してるんだよ。イブの約束だよ。普通の日と違うんだよ。イブだよイブ」
「イブ、イブって、さっきから何度も同じことを繰り返さないでよ。翔のはブイブイ文句を言ってるだけじゃない。これじゃあお楽しみが文句になって逆でしょ」
「イブイブ、ブイブイ、上から読んでも下から読んでも言葉が理解できる。それでいて言葉の意味は真逆かあ。詩織、うまい」
「うまいじゃないわよ。ごまかしてほめたって騙されないからね。ああ、もう。ほら、寝られなくなったじゃない」
私は枕に不機嫌をこめて翔にぶつけた。
「なにするんだよ。いたいなあ。約束を破ったのはそっちなのにさあ」
翔が枕を横に置いて反論する。私も負けじと言い返した。
「約束って、私が故意に破ったわけじゃないでしょ。仕事なのよ。上司に命令されて断れるわけないでしょ。それもデートで休みますなんて、学生じゃないんだから、そんな理由が通るわけないでしょ。仮に通ったとしてもそんなこと言えないわよ」
「仕事はわかるけど、でも」
「でもじゃない。わかるならそれ以上反論するな」
「なんだよ。こんなときだけお姉さんぶって話を終わらすなんて。ずるいよ」
拗ねた言い方をしながら私への非難をしつこく繰り返す。
「もう、あたまにきた。いいかげんにしてよ。社会人は、働く人は、自分勝手に遊べるわけないでしょ。それくらい理解しなさいよ。年下だからって三つでしょ。翔はもう二十五なのよ。いつまでもフリーターをしてる人とは違うの」
「ひどいなあ。そこまで言うことないだろ」
私が怒りを露わにして蒲団から起き上がろうとすれば、翔がトイレへ逃げ込んだ。
私は洗面所へ行き、顔を洗って熱した思いを冷やした。ベッドへ戻り、服に着替えた。翔はトイレから出て来ない。
「いつまで拗ねてるつもりよ。年下でもかわいくないよ。出て来なさいよ」
「詩織が悪い。今日のことは町村詩織さんが悪い」
なによ、そのいじけた言い方は。かわいくないっつうの。
「一生そこに入ってろ。ばか」
私はトイレのドアを蹴飛ばして部屋を出た。そして今は本屋さんにいる。
はあ、思い出すとなんか頭痛がするわ。
私は新刊の文庫本を持っていた。
書棚の前で姿勢正しく立ち、じっくりと黙読をしていたが、裏表紙の解説が頭に入らない。
頭の中では苛立ちだけが駆けめぐった。
もうだめかな。
考えもしなかった思いが文字となって頭の中に浮かんだ。
我が恋の半生を振り返れば、胸が痛くなる想い出や過ぎ去った男たちの顔がはっきりと脳裏に浮かぶ。
ちょっと身震いする。
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