第一章「クリスマスツリー」 3

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第一章「クリスマスツリー」 3

 翔との最初の出会いは、私が二十七歳になった秋のことだ。  私は仕事で注意されることが増え、家族のことも重なって精神的に疲れていた。()()らしと言うか、ストレス発散と言えばいいのかわからないけど、休みの前日に、夕食がてら近所の居酒屋に行った。その居酒屋に(しょう)がいた。  二回目のとき、前回来たことを覚えていたようで、小鉢(こばち)を一品サービスしてくれた。  三回目は生中を素知(そし)らぬ顔をしてテーブルに置き、お店には内緒(ないしょ)でサービスをしてくれた。  それ以後、二言三言会話を交すようになり、私は常連客になった。  翔に対して恋愛感情はこれっぽっちもなかった。風貌(ふうぼう)を見ても、あどけない笑顔を見ても、会話の内容も、どう考えても年下としか思えなかったからだ。男として頼れるところが見あたらない。  私の恋愛遍歴を振り返れば、年下は恋の対象外だ。それに傷つくのはもうこりごりだと、意識的に恋愛感情を押さえていたと思う。だから翔は男としてではなく、姉弟的な、仲間的な、休日前に一時を過ごす友、といった感じだ。  女は、相手が男性でも友達として位置づけ、恋愛対象としてみないで、友人関係が保てる。相手を異性としてみるには、意識的な変化が必要だ。  しかしながら男っていう生き物は、どうもそうはいかないらしい。  女性と顔見知りになり、お互いが打ち解けると、知り合った時間の長さは別にして、友達感情から恋愛感情へと移り変わり、恋へと発展する。  男にとって、女性は友達ではなく、やはり異性なのだ。  ちょっとやっかいな感覚の違いが存在する。  今の関係がちょうどいいじゃないのと、私の感情をそっとしてはくれない。必ずひとつの決断を迫られる。  二人で飲みに行った帰り道、なんの予兆もなく翔から告白された。 「俺、(なつ)くよ」の言葉には思わず笑った。 「お前は猫か」のツッコミに、翔はこの上もない笑みで両肩を揺すった。  男に惚れて、つくして、傷つくよりも、男から惚れられて、溺れることもなく、冷静につきあえる方が、私にはちょうどいいのかもしれない。  私はつきあうことに条件をひとつだけつけた。 「私、忙しい女だから、都合のいいときに会いたいと言われても無理だからね」 「俺、好きな人とのつながりがあれば大丈夫だから」  私の心を揺さぶったあの言葉はもう忘れたのだろう。  つきあい始めてから一年が過ぎ、二人の関係に慣れが生まれてきたんだ。束縛の前兆が翔にも現れてきた。別れ話をするのなら、やはり今かもしれない。  翔とは心に一定の距離を保ってつきあってきたつもりだ。  普通の恋人同士の関係でも、心を振り回されるような溺れ方はしてない。今なら過去の失恋ほど傷つくことはない。  考えてみれば、翔は今までつきあった男のように窮屈(きゅうくつ)さを感じない。翔は細かいことを言う男じゃないからね。  あれ、私の気持ちはどっちなのよ。私はどうしたいのよ。別れたい。それとも好きなの。両極の思いが交差する。  そういえば、初めて二人で食事に行ったとき、「マナーを気にしすぎてぎこちない食事をするより、食べ物は感謝しておいしく食べるのが一番の礼儀じゃないの」と言って、翔は満面の笑みで唐揚げを頬張った。私は口元がほころんで梅サワーを呑んだ。  翔の言葉は私の気を楽にした。  私の日常生活が守られ、空いた時間の隙間に翔との時間が入る。  翔は私と会うことに喜びをまっすぐ伝えてくれた。  一緒にいる時間を作った私の思いが報われる。  いつもおおらかな男で、私にとってはいごこちのいい関係が保てた。  ひとつだけ、そうひとつだけ翔に難があるとすれば、やはりクリスマスの時期だ。  翔は、なぜかクリスマスだけは(かたく)なに私と一緒に過ごそうとする。  まるで早割の格安旅行キャンペーンに申し込む感じで、二十四日と二十五日の両日に、早い時期から私との約束を取り付けようとする。  去年は広告雑誌に掲載されたレストランに、翔が早くから予約を入れた。  私の勤務ローテーションも日勤で、十九時以降なら余裕で会うことができた。そのはずが、十八時過ぎにW駅近くのデパートへ行って、翔にクリスマスプレゼントを買ってあげようと思ったのが間違いのもとだ。  いくつか品定めをして、手袋とマフラーを選んだ。  買い物を終えたあと、私は化粧室へ入った。  約束のレストランへ行くために化粧直しをしたときのことだ。  鏡の横に紙袋とバッグを置いた。目をつぶったとき物音がした。はっとして確かめると、横に置いた物がない。  一瞬の隙に全部盗まれた。すぐに追いかけなきゃ。  滅多に履かないヒールは私の動きを鈍くした。  私は化粧室を出て、周りを確かめた。けれど、私の物を持って逃げる人はどこにもいなかった。  クリスマスイブだというのに大事な物を盗まれるなんて。最悪だ。  店員さんに伝えて警察を呼び、現場で事情を説明した。  最近は路上でのひったくりなども増えているという。  とりあえず盗難届を出して、すぐに部屋へ戻った。  銀行のコールセンターに連絡をして、キャッシュカードの使用を止めた。盗まれた物で、他にも手続きが必要なものであたふたした。  私は世間とは違う慌ただしさで、楽しいはずの時間を浪費した。  結局、約束の食事はすっぽかした。おまけに気が動転したので、翔への連絡もすっかり忘れた。  不幸が続くクリスマスの季節なのに、もっと用心をすればよかった。でも毎年なにがふりかかって来るのかわからない出来事に、一体どんな対処法があるのか、悔やんでもどうしようもない思いが私を取り囲む。  結論的に思ったことは、クリスマスイブを楽しもうと、変な期待を持った私にばちがあたったということだ。  世間の恋人たちが楽しいディナーを終え、次なる場所へ移動する時間帯に、呼び鈴が鳴った。  私はこれ以上ばちがあたらないように、声を落とし、音を消し、毛布に包まり、じっとした。部屋の明かりは消してなかったけど居留守を使った。  翌日は日勤と夜勤が重なり、ほとんど病院にいた。  次の日は夜勤明けの休日なので、朝から交通センターへ行き、免許証の再発行手続きを済ませ、携帯電話や必要な物を買いに行った。  二十八日の外来診療が終わると、ローテーションが多少変わり、年明けの診療が始まるまで年末年始の休みに入る。  二泊三日で実家に帰り、ゆっくりと時間を過ごした。  年内は翔と会えなかった。いえ、会おうとはしなかった。    私は年明けに部屋へ戻り、体を休め、翌日の休日勤務に備えた。  夜に玄関のドア越しから翔の声が聞こえた。  二度目に町村さんと呼ぶ声は、掠れたような、怯えたような、不安に取り囲まれている。  私が部屋にいると確信した翔は立ち去ろうとしない。  三度目の声に私はドアの前で立ち(すく)んだ。  四度目の声にドアの鍵を開けた。ドアは閉じたままだ。  五度目に翔は私を詩織さんと呼び、どうしたの。なにがあったの。と心配した声に変わった。  開かれていくドアの隙間に、翔の顔が左からスライドして姿を現した。  寂しそうな、泣きそうな、崩れそうな、なんとも説明しがたい悲しい顔をした翔が目の前にいた。  翔の顔を見ると、事件のことを引きずらないように、落ち込まないようにとがんばっていた気持ちがぽきりと折れた。  私は気弱で塞いだ表情をしてたと思う。 「仕事じゃないよね。携帯電話もつながらないし。なにがあったの。心配したよ」  翔は怒らない。不満な顔も見せない。約束をすっぽかした私を責めたりしない。  私は翔の腕をつかんで部屋の中へ引き入れた。  言葉もなく翔の胸に抱きつくと、翔は私の背中に腕を回した。  私の雫は翔の服を濡らした。  私の気持ちが落ちついてから部屋の奥へ場所を変えた。  世間の恋人たちが共有するような時間を過ごしたあと、ベッドの中で盗難にあったことを話した。  すぐに連絡が欲しかった。詩織が不安なときはそばにいたかった。年下でも男として頼って欲しかった。詩織を守れる男になりたいんだと、愛する気持ちを伝えてくれた。  私は翔の胸に顔を埋めた。    結局、クリスマスイブの約束を二年連続すっぽかしたけど、去年は私の不注意もあるが、今年は仕事だからしょうがない。それなのにあんな風に怒ることないのに。  翔はどういう育ち方をしてきたのやら。想像だから確かなことは言えないけど、きっとわがままを聞いてくれる家庭に生まれ、甘やかされて育ったと思う。  よく考えれば、私は翔の人生をほとんど知らずにつきあっている。翔の生い立ちについては聞いたことがないし、翔も話してくれないから、私には知る由もない。唯一、就職についてのみ知っている。  現在のアルバイトに至る経緯を思えば、翔はかわいそうであり、不運な男だと思う。  翔は大学四年生のとき、同時期に二社から就職の内定を得た。将来の安定を考えて大きい会社の方を選んだ。断った会社には残念がられたという。  しかし前途の光はすぐに消えた。内定を取り付けた会社が不況の(あお)りを食って、会社の規模を縮小することになった。  結果は、理不尽な内定取り消し。  だめもとで、やはり考え直しました。こちらの会社でがんばりたいので。とか言って連絡をしても、この就職難の時代に、一度断った会社に空きなどあるわけがない。空きがあったとしても、失礼な行為は許されることじゃない。  翔は気持ちを切り替えて、正社員を目指して就職活動をしている。  就職活動と言っても、翔は職探しに明け暮れているわけではない。  成人になり、大学を卒業したからには、経済的に自立をしなければならない。とにかくなんでもいいから働き口をみつけて、自分で稼ぐことが先決だと考え、居酒屋でアルバイトを始めた。  今はアルバイトの合間を縫って、W駅の近くにあるハローワークへ行き、地道に正社員の募集を探しながら就職活動をしている。  たとえ夢や目標があったとしても、いつまでも親の(すね)(かじ)って自立できない大人よりは立派だと思う。  翔はちゃんと社会に出て、自分の力で生きている。理不尽な内定取り消しをされても()えずにがんばっている。  人にとって夢を追うことは大事なことだと思う。だけど大人になれば、夢は働きながら叶えるものだと思う。親から自立することが第一だ。そう言う意味では翔はがんばっている。  けれど、翔の夢ってなんだろう。翔はなにをしたいのだろう。心の中ではどんなことを思っているのだろう。  翔の内面を、深い部分を、本心を、私はなにも知らない。  私は翔の表面的な部分しか見ていない。  翔が話さないからということを言い訳にしただけ。  私からは翔のことを聞こうとしなかった。翔を知ろうとしなかった。翔に興味を持とうとしなかった。  私は自分のいごこちばかりを考えていたのかもしれない。  翔とちゃんと向き合ってないのは私の方だ。  私にも非はある。
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