騒つく心

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騒つく心

 私の好きなイチゴのケーキを手土産に、私は征一のマンションの前に立っていた。何だか、ここから先へ足を踏み出すのが怖い気がする。この一週間、ずっとそれを繰り返していたはずなのに。  今日、私と征一の関係が大きく変わる気がするのは、私だけの考えなんだろうか。私は深呼吸すると、マンションの玄関ホールへ足を踏み入れて、部屋番号を押して征一を呼び出した。  電子音と共にオートロックが解除されて、私は吸い込まれるように中に入った。私はもう後戻り出来ないんだ。自分の中に少しの迷いも無いのかと問われたら、どうかなと思うけれど…。  少なくとも、私の身体は前に進んだ。部屋のインターホンを押す前に、扉が開いて征一がにこやかに笑って私を迎え入れた。私はデザートを征一に押し付けると、挨拶もそこそこに、そそくさと手を洗いに洗面所へこもった。  ああ、私は意気地無しだ。それとも気負いすぎ?せっかく征一が夕食を用意してくれてるのに、あんな態度で気を悪くしたに違いない。  私は自分の不甲斐なさにすごすごとリビングへ向かった。キッチンから征一が声を掛けてきた。 「丁度良かったよ。もう出来るから、テーブルセッティングしてくれるか?ここにあるもの並べて欲しいんだけど。」  いつも通りの征一に励まされて、私はイタリアンサラダや、ちょっとした前菜、そして鍋敷きや食器ををテーブルに置いた。  「今から熱々のラザニアを持っていくから、退いていてくれ。」  弾む声で征一がオーブンからジュウジュウと鳴っているラザニアを取り出して、鍋敷きの上にそっと置いた。私はトロリとチーズが溶けて香ばしく焼き上がったラザニアに思わず心が浮き立った。 「美味しそう!私、ラザニア好きなんですけど、作ったことはないんです。征一さんは、ほんと多才ですね。」  征一は少し照れたように言った。 「実は私も初めて作ったんだ。以前美那がラザニア好きだって言ってたのを思い出してね。作り方を見てたら出来そうな気がして、取り敢えずやってみた。はは。美味しければ良いけどね…。」  私はさっきマンションの下で戸惑っていた自分の気持ちが、ゆっくりと強い確信に変わっていく気がした。そういえば、いつも征一は私の言うこと、私の好きな事を気に留めて、それを私に見せてくれる。  それは考えすぎる私にとって、くすぐったくなる様な嬉しい事だった。私は、にっこり笑って言った。 「きっと美味しいはずです。早く食べたいです!」  すっかり食べ過ぎてしまったし、終始和やかな雰囲気で、私は油断していたみたいだ。気の置けない、取り留めのない会話が不意に途切れて、征一が私を真っ直ぐに見つめて言った。 「…そろそろお風呂に入るかい?」  そう言って私を見つめる征一の眼差しが熱くて、私の心臓がドクリと音を立てた。私はモゴモゴとしどろもどろに慌てて立ち上がると頷いて自分の部屋に着替えを取りに向かった。  箪笥の中から、今日自分のマンションから持ってきた勝負下着とナイティを手に取るとつぶやいた。 「…そうと決まった訳じゃないから。念のためよ。そう…念のため。」  私は自分の顔が熱くて、多分赤らんでいる自覚をしながら征一に会わない事を願って浴室へ向かった。洗面所で手を洗っていた征一に出くわして顔を見上げて固まった私を、征一はクスリと笑って耳元でささやいた。 「今夜は期待していいのかな?私が出たら、美那を迎えに行くから待っていて…。」  そう言うと、真っ赤になっているであろう私を置いてリビングへ戻って行った。私はすっかりドキドキして、洗面台に映り込む自分の赤らんだ顔を直視出来なかった。  私はため息をつくと、少し震える指先で服を脱いで鏡に映る自分の裸体を見つめた。急に太ったということもないし、どこかにアザができたということもない。…大丈夫よね?  お風呂でいつもより念入りに身体を洗いながら、私は自分の心がドキドキして大丈夫じゃないと思った。緊張とそれを上回る期待。でも、心の中に征一と結ばれる事への不安はない気がした。  高校生じゃないんだから、こんなにドギマギするのもはっきり言って青臭い。お風呂から出て、去年翼にせっつかれて買った美しい下着を身につけると、少し自信が出た気がする。 『美那がこんな下着つけたら、男はケダモノになるわね!』  そう言って笑った翼の顔を思い出して、ケダモノは言い過ぎと少し緊張がほぐれた。部屋に戻って化粧水やリップで手入れして髪を乾かしていると、廊下の方で征一の部屋のドアが開け閉めする音がして、私は一気に心臓が速くなった。  鏡に映る自分の赤らんだ顔を見つめて、ああ、もう心臓がもたないと全身で脈打つ身体を持て余していた。  コンコンとドアがノックされて、私は確かに飛び上がった。私はふらふらと立ち上がると、ドアを開けた。そこにはぎらついた眼差しの征一が待ち構えていて、気がつけば私は征一に唇を塞がれていた。
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