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ある日。
「――綾斗さん」
そう呼びかけられ、僕は思わず足をとめた。
僕のことを芸名でなく本名で呼ぶ人物は、そう多くないはずだからだ。
僕は大きな舞台の初日を終え、劇場を後にするところだった。出待ちをするファンを避けるため、キャストは裏の出口から外へこっそり出る。
そしてマネージャーの車に乗り込もうとしたときに、声をかけられた。
声の主は少年だった。小学校高学年か、中学生か、それくらいの年代の男の子だ。
僕の出演中の舞台の客層とは大きく外れる。本名を知っていることも不自然。違和感を覚えるには十分な相手だ。
「君は、まさか……」
僕は気づいた。
もしかして、この少年は……。
僕を車に押しこもうとするマネージャーを制止して、僕は少年に近づく。
「……まさか」
僕はもう一度言った。
「美咲の、子供……?」
少年は「はい」とも「いいえ」とも答えず、表情ひとつ動かさなかった。
でも間違いなかった。この子は、美咲の子供だ。
九年前、保育園でちらりと見た、少年の顏。美咲が手を繋いでいた、あの少年の顏。それが、九年という歳月を身にまとい、目の前に立っている。
僕はマネージャーに、「この子は、知り合いのお子さんなんですよ。家まで送ってあげてもいいですか」と尋ねた。
マネージャーは渋々承諾した。
僕と少年は適当なところで車を降りて、徒歩で僕の自宅マンションへ向かった。
その間、少年は一言も喋らなかった。
部屋に入ると、暖かいココアを二人分作って、テーブルで少年と向かい合った。
「……」
明るいところで正面から少年の顏を見た瞬間、僕の心の中に、ある疑惑が生まれた。
ちょっと待ってくれ。もしかして、この少年は……。
いや、今はまだ考えるなと、僕は自分に言い聞かせた。
「それで」
僕は言った。
「何か、話があるんだよね?」
「母が死にました」
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