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 親父が僕と母さんを捨てて別の女のところへ行ったのは、ちょうど十一年前のことだ。  当時、僕は十二歳、母さんは三十四歳だった。  母さんと僕は途方に暮れた。でも、多分どこかで諦めてもいた。  あの人はもう戻ってこない。  だからこそ、母子(おやこ)で手を取り合いながら生きていくしかないのだ、と。  忘れもしない、良く晴れた晩春の朝、最後に見た親父は、赤い中古セダンの窓を開け、ぷかあと煙草の煙でも吐くような顔でこう言った。 「母さんを大事にしろよ。おまえは俺の息子だ。頭もいいし、運動神経もいい。女にもモテるだろうし、器用な生き方もできるだろう。いい素材を受け継いでいるんだから、くよくよ悩むな。人生ってのはな、アクシデントがあるから面白いんだ」  どの口がそれを言う、と僕は腹を立てた。表情にも出ていたはずだ。しかし親父は苦い顔一つせず、むしろ自由を手に入れて爽快だと言わん顔で笑った。 「今日はいい天気だ。これから新しい人生が始まると思えば、何だか浮き浮きしないか。心配しなくても金は送る。家の中に俺がいるより、現金があった方がいいだろう。おまえは好きな道を選べ。勉強を頑張って、部活にも打ち込め。惚れた女に近づくときは、普段よりもちょっとだけ強引になれ。多少グレても構わんが、母さんを泣かせることだけはするな。あれはおまえが思うより繊細だ。そこを理解していれば、何でもうまくいく」  あんたが一番母さんを泣かせてるんじゃないか、と思ったが、言葉を知らない当時の僕には、親父の心をえぐるようなことが言えなかった。  どうにかしてこいつの胸に深い傷を残したい。たとえばグーで殴っても良かった。そうした憤懣(ふんまん)をぶつけるように、僕は中古セダンのドアを思い切り蹴った。へこんだ。 「どわはは! へこんだなあ」  笑い方が(かん)に障ったので、もう一度蹴った。そうしながら、僕は少し泣いた。 「ねえ、どうしても行っちゃうの? そんなに僕たちが嫌いになったの?」  母さんは台所でやたらと時間のかかる料理を作っていた。浮気夫を見送るなんて絶対に嫌だと、外にも聞こえるぐらいの音量で歌を歌っている。 「いや……」  親父は車内から手を伸ばし、僕の頭をそっと撫でた。 「嫌いになるはずがない。あれは俺のことをよく分かってる。理解者を得ることは、おまえが思う以上に難しいことだ。けど、だからこそそれを傷つけたくねえと思うもんだ」  親父はフフッと笑い、僕の髪をくしゃくしゃっとかき混ぜた。 「あれに対しては愛がある。別の女との間には恋がある。その違いをおまえはまだ知らない。俺は熱に浮かされた子どもみたいなもんだ。熱を冷ますためには、冷却期間ってやつが必要なんだ。ただそれをやりに行くだけ。大して時間もかからねえだろう。そうすればまた戻ってくる。何年何月何日と断言はできねえけどな」  実に身勝手な男だと思った。責任感のかけらもない。もどかしい思いで髪に触る手を払いのけ、恨みをたっぷり込めて(にら)んだ。 「もう、戻ってこなくていいよ。僕は母さんと生きていく。あんたとはこれでさよなら。愛だか恋だか知らないけど、とことん傷ついてボロ雑巾みたいになればいい」  言うと、親父はさらに大きく、どわははと笑った。 「それだけ言えりゃ上等だ。餞別(せんべつ)として受け取っておこう。んじゃあ、俺は行くわ。母さんと仲良く暮らせよ。後でおまえにサッカーボールを贈ろう」  車のウインドウを閉めることなく、親父は走り去った。信号を折れるまで車から腕を出し、儀式みたいに手を振っていた。僕は母さんの怒りや悲しみを思い、近くにあった電柱を蹴った。爪先が痛くて、余計に腹が立った。
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