《2》

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《2》

 それからの日々は、僕と母さんの絆を深めさせた。  結局、親父がいてもいなくても、(カネ)さえあれば生きていけるのだと知った。  パート勤めだった母さんは、その会社で正社員として働き始め、僕が高校に上がる頃には主任として活躍するようになった。  後悔とか、失望とか、どうしようもない怒りとか、そういうものを感じることもなく、穏やかな日々の中で僕は人並みに勉強し、部活をし、恋をした。喜びとか、苦しみとか、多少の誤解を覚えながら人間性を深め、大学在学中に初恋の人と結婚した。そして卒業後の昨年三月から、僕はその人と暮らし始め、記念樹のような思いで一匹の猫を買った。その猫の図体が一般的な仔猫よりも大きくなった頃、妻・(きみ)()の妊娠が発覚した。  僕自身は、まだ答えが出ていなかった。親父から出された宿題のようなもの。  愛と恋との違いである。  僕は妻に対して深い愛情を抱いているが、同時に強い恋心も抱いていた。それらが時間とともに変質し、境目が曖昧になって、恋が恋でなくなり、愛が薄れていくものだとしたら、やがて君香との関係も変わっていくのだろうか。  心から好きだと思える人が、いつか当たり前の存在になって、互いに慣れ、想いが希薄になっていくのだろうか。  どう考えてみても、二人の絆が切れるとは思えなかった。けれども終焉はいつでも近くにあって、僕はそれに絡めとられてしまう微弱な予感もあった。あの日、去っていった車から見えた親父の手が、それを暗示していた気もした。  最近、僕は親になるという意味と、それに伴う責任に思いを()せながら、あてもなく街をぶらついている。  つわりが他人(ひと)よりも長くひどい妻の(しょく)せるものを探すという口実で、自分の心に問いかけている休日だ。  子どもが生まれたら、きっと色々なものが変わっていくだろう。その変化にうまく対応できるのか、それとも無責任な男のように、途中で投げ出してしまうのか、自信がなかった。  思えば、親父は僕とよく遊んでくれた。釣りだったり、キャッチボールだったり、アニメ映画もよく観に行った。親父に言わせると、下手な邦画を観るよりもアニメの方が感動的だそうだった。声優はすごい、原画マンもすごい、人にはない技術でこんなにすごいものが作れるんだ。ただカメラを回すんじゃなく、ただ小道具を用意するんじゃなく、すべてのものを一から描いて作る苦労を考えると、俺は涙が出てくる。親父は映画の後、そういったことを延々語りながら興奮していた。僕は単純に楽しんでいただけだったが、熱弁を聞くうちに親父の感動を記憶に塗りつけてもらっている気がしていた。  たとえばそういうことのように、僕は子どもに接せられるのか。  親子でありながら友達で、時には自分が弟になったり、時には大らかに包むだけの器になったり、趣味を共有して互いに高め合ったりできるのか。  経験が少なく、兄弟もなく、人との付き合い方にも距離をとる僕が、猫よりも身近で、目に見えて成長する、人の言葉を話す生き物とどう向き合えばいいのか。  それは愛なのか。それは義務なのか。それは責任なのか。それはいったい何なのか。  時に哲学的になり、時に絵空事になり、時に実感を伴わない家族の形に正論は通じないと諦めてみたりした。  あの日のようによく晴れた晩春の午後、街なかには多くの人がいた。学生や、老人や、恋人同士や家族連れ。誰にも彼にも親があり、または子どもがいる。等しく母体から生まれた生命体は、全てが愛に満ちた人生を送れてはいないだろう。憎いぐらいに親が嫌いな人もいれば、親からの虐待を受けて育った人、もしくは子どもを虐待している人もいるかも知れない。  幸せの定義などは育った環境によるところが大きいと思う。大勢に認められて悦に入る人もいれば、たった一人と心を通わせる人もいるだろう。  果たして僕は、いわゆる一般的な「普通の家庭」が築けるのか。  妻を愛し、子を愛し、猫を愛し、仕事と家庭を両立させ、自慢の夫に、自慢の父親に、自慢の飼い主に、人並みの社会人になれるのか。  僕の自信は頼りない。胸の中に打ち立てた柱が脆いのだ。自分の主張を貫く強さもなければ、人と争う勇気もない。浮気性ということは決してないのだが、君香との間に不和が生まれたとき、優しさを求めて移ろう隙間はあるかも知れない。親父がいてくれたら良かったと思うのはそういうときだ。喝を入れるなり、雷を落とすなり、成人になった今は酒を酌み交わすことでもよい。相談相手になってほしかった。  母さんは僕のおおよそを知っているが、どこまでいっても母であり、年上の女だ。女の望む理想の男性像(もしくは息子像)は現実離れしていると思う。  男は女より弱く、腕力があるだけの生き物だ。口で勝つことはまずできないし、生活能力といったものも備わっていない。夫に先立たれた妻が活発になり、妻に先立たれた夫が減退するのはよく聞く話だ。女には敵わない。最近では男の地位そのものが転落している気がしてならない。
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