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《3》
カフェの中は、外観よりもさらにレトロな感じだった。モノクロのレコードジャケットや映画ポスターが飾られ、テーブルや椅子はアンティーク調で、何十年か時代が戻った感じだ。
どうやらマスターが音楽を選んでいるらしい。カウンターには古びた蓄音機があり、黒い円盤が針を落とされて回っている。濃いコーヒーの香りと、それに混ざったパンケーキの匂い。メニューを見ると、飲み物やデザートを合わせても七品しか書かれていなかった。
「店内禁煙だけど、大丈夫?」
親父は愛煙家だった。家の中は、いつも煙の匂いがしていた。
「小せえ世の中になっちまってよ、外で煙草は吸わねえんだ。職場は殆ど喫煙者だから、灰皿の周りはいつも賑やかだがな」
確かに、喫煙者にとっては住みづらい社会だろう。僕は吸うつもりはないけれど。
「あのさ、色々話したいことあるんだけど、一つだけ確認してもいいかな」
「なんだ」
「ええと、今さら訊きづらいんだけど、その……」
親父が僕の目を覗き込んでくる。仕方なく僕は意を固めて訊いた。
「今でも、親父って称んでいいのかな。もう僕には称ばれたくない?」
かなり勇気を出して言った言葉だったが、親父はどわははと笑い、僕の背中を厚い手で弾くように叩いた。
「何言ってんだ。親父は親父だろうが。おまえは俺の自慢の息子だ。どんだけ時間が経とうとも、それが変わるはずはない」
それを聞いて安堵した。いや、すごく嬉しかった。思わず頬が緩み、親父の寛大さに感謝した。僕の知らない人じゃない。知らない部分が多くても、親父は親父だった。
「ありがとう。じゃあ何でもじゃんじゃん頼んでよ。もう大盤振る舞いだ。今日はこの店の売上に貢献するって決めた。おなかいっぱい飲んで食べてよ」
それまでどこか空虚だった部分が、この瞬間に満たされた。
僕は親父に捨てられた子どもだったけど、やっぱり繋がっていたんだ。
金銭でこの喜びを表せるなら、店を貸し切ったって良かった。耳に優しい知らない歌手の歌も、祝してくれているみたいだった。
「あー、何でもっつってもなあ、酒がほしいところだなあ。俺はあいにくコーヒーで酔えるほど人間ができちゃいねえからよ」
「じゃあ店を変えようか。ファミレスなら酒はあるよ」
「いや、気にするな。ただおまえと乾杯したかっただけだ。一昨年肝臓をやられてな、昔みたいに飲めなくなった。まあいいや、コーヒーで乾杯しよう。俺はアイスな」
それを受け、僕は手を挙げてマスターを呼んだ。しかしマスターはカウンターから出ようとしない。声は聞こえているから注文を言ってくれと言う。僕はアイスコーヒーを二つ頼んだ。マスターは何も返事をしない。なるほど、気難しい店のようだ。
「ところで涼平、おまえ彼女はいるのか」
薄ら笑いを浮かべている親父は、昔から女の話が好きだった。
「彼女って言うか、実はもう結婚したんだ。親父にも知らせたかったんだけど、住所も電話番号も知らないから伝えられなかった。もうじき子どもも生まれる」
親父はパアッと表情を明るくした。
「そうか、結婚したか! 子どももか! そりゃあダブルでめでたい。祝儀をやらにゃあいかんな。ええと、今いくらあったかな」
言ってポケットをまさぐる。
「いいよ、そんなの。報告できただけで良かった。お金なんていらないよ」
「そうはいくか。息子の結婚すら祝えねえほど落ちぶれちゃいないさ」
テーブルの上に、ぐちゃぐちゃに折れた札と小銭が置かれる。そこからくたくたの一万円札を拾い上げ、僕に突き出してくる。
「今はこれしかないが、受け取れ」
きっとこのテーブルの上の金が全財産なんだろう。「貯金なんか女々しい奴のやることだ」と豪語していた親父は、その日暮らし的な生き方が似合う。
「これ、大切なお金でしょ。受け取れないよ。一万円もらったら、あと二千円ちょっとしか残らないじゃない」
「いいんだ。受け取れ。俺は涼平に会えて嬉しいんだ」
押し問答をしても親父は引かないだろう。仕方ない。僕は一万円を受け取った。
「よく分かってるじゃないか。そうだ、それでいい」
「ありがとう。いつでも返金するから、遠慮なく言ってよ」
「かかか。返金なんざ頼まねえよ。嫁さんに美味いモンでも食わせてやれ」
「あー、今ね、つわりがひどくてあまり食べられないんだ。でも、ありがとう」
話すきっかけが手に触れたところでマスターから声がかかった。
アイスコーヒーができたので取りに来い、と言う。
席まで運んでくれないのか。だったらセルフサービスです、とでも書けばいいのに。変なクレームがつきそうだと僕は危惧した。
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