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ガラスの心臓
◆◆◆明生◆◆◆
暑いとぼやく声を寝転がったまま聞き流す。
縁側から容赦なく照りつける太陽と、アイスを食べながら扇風機に向かっている高雄。
「明生さん、暑くないの?」
「暑いに決まってるだろ。扇風機の風は高雄が遮るし」
畳に寝転んで小説を読みながら、俺は視線を外すことなく答えた。すると高雄は反論する。
「だから、エアコン、つけてよぉ」
***
昭和な一軒家を祖父から受け継いだのは春先。平屋の小さな家だ。祖父が亡くなり、両親が手放すべきかと迷っていたが、俺はこの祖父の家が気に入っていたし、玄関前の庭に咲く紫陽花が好きだった。
『俺が一人暮らしするから、手放さないで』
夕飯を食べながらそう断言したとき、両親は驚いていたが、どうせ大学に通うのに一人暮らしする予定だったこともあり、承諾してくれた。
引っ越しして一年。エアコンはないし、玄関チャイムの調子は悪い。だけどなかなか快適な暮らしだ。そして何より半年前からここに入り浸る高校生との時間が楽しい。
高雄と知り合ったのは、新緑深くなった頃。朝、紫陽花に水をやっていると、垣根ごしに学ランの高雄が話しかけてきた。
『あれ、じっちゃんが若くなってる!誰アンタ?』
茶髪に赤いインナーが見える、なんとも田舎な学生に見えた。朝からなんだこいつ、と思いながらも、この家に住んでいたのは祖父で数ヶ月前に亡くなり、俺がここに住むことになったと軽く説明した。
すると高雄の顔が見る見るうちに歪んでいき…
『じっちゃん…死んじゃったの?なあ、お墓どこ?連れてってくれよ』
そう言うと、目から土砂降りの涙を流した。まるでガラスのようにキラキラした涙を。
学校帰りに高雄が庭の紫陽花を眺めていたとき、祖父に話しかけられたのがきっかけで、仲良くなったのだと、墓地に向かう電車の中で高雄が教えてくれた。
『僕がたまに喧嘩して顔、傷だらけにして帰ってたら、じっちゃんが気がついてさ。怒られるかと思ったら、お前が勝ったんだろうな?って言いながら手当てしてくれたよ』
そう言えば、俺にも喧嘩するなら勝たなきゃ意味がないって言ってたな。母親がとんでもない!って言ってたっけ。
目を赤くして高雄は、笑顔をこちらに向けた。
『明生さん…だっけ、ありがとう。こんな無理矢理なお願い聞いてくれて』
『…大学の講座がなかったからな。それに、祖父も喜ぶだろうし』
『やっぱりアンタあのじっちゃんの孫だなあ!優しいや』
高雄は思ったことをすぐ口に出すタイプなのだろう。苦笑いしながら俺は恥ずかしくなって、思わず顔を背けた。
その日から高雄は、うちの前を通るたびに話しかけてきた。朝や夕方、俺がいる時を狙ってるのかと思うほど。大抵、垣根ごしに話していたがそのうち、家に来るようになった。
『肉じゃが、たくさん作ったから持って行けって親が』
『兄貴が釣り行ってきたから魚、お裾分け〜』
『ミカンいるー?』
『新しい漫画、読まない?』
何かと理由をつけてはうちに来ていた。ある時から、調子の悪いチャイムを押すことなく、玄関の戸をガラガラと勝手に開けるようになっていた。
初めは戸惑っていた俺も、だんだん慣れてきて最近では休みの日は高雄が入り浸りしているのが普通になっていた。
何が気に入ったのか分からないし、俺もなぜ受け入れているのか、分からないけど二人で過ごす時間は嫌いじゃなかった。
***
「夏休みが終わったら、僕、引っ越しするんだ」
真夏を迎える前に、高雄がぽつりと呟いた。俺は少し驚いて麦茶をこぼしそうになった。
「そうか、寂しくなるなあ」
「うん…だからさ、僕、好きなやつに告白しようと思って」
ガタン、といよいよコップが倒れてしまい、麦茶の海がちゃぶ台に勢いよく出現した。
「明生さん動揺しすぎ」
笑いながら、タンスの上のティッシュを持ってくる高雄。俺はそれを受け取りながら聞いた。
「同級生?」
「うん。クラスメイト」
「そっか、頑張れ」
俺がそう言うと、高雄は少し照れた様子で笑う。
「ありがとう」
このまま暑い日が続けばいいのに、とどこかで思った自分がいた。暑い日が続いて夏休みが終わらなければ高雄は引っ越さないし、告白しないのに。そばにいてくれるのに。
そんなことを思ってしまった瞬間、俺は思わずゾクリとした。…この感情は何だ?
やがて、さっきまではしゃいで話をしていた高雄は、少し疲れたのか、気がつくと畳の上でうたた寝をしている。
扇風機の音が響き、火照る俺の体を少しだけ冷やしてくれた。
***
結局、高雄の告白がどうなったのかは知らない。まだ暑さが残る中、高雄はもう家に来ることはなくなった。
ありがとう、と最後に握手して少し寂しそうな顔の高雄を見たのはもう三年前のことだ。
高雄と過ごした半年は色褪せることなく、むしろ増幅してしまい、俺はこの家から離れられない。就職先だってこの家から通える範囲内に考えている。
いつか高雄が訪ねてきてくれるかもしれない。その時まで、庭の紫陽花を守らないと。
あの時の感情の正体を、俺はもう分かっていた。
もう叶わないけれどもう少し、覚えていたい。
カシャン、と鍵がかかる音を確認して、家をあとにする。今日も日差しが眩しい。背伸びして駅に向かう。今日は確か、高柳教授の講座だったかな。
スマホを見ながら歩いていた俺は、気がつかなかったんだ。前方から、笑顔で走ってくる少し大人びた高雄の姿に。
◆◆◆高雄◆◆◆
「聞いてもらうだけでいいから」
引っ越しする前に、告白した。結果は想像どおりだった。
「まじかよ」
告白した相手は、クラスメイトでよく喧嘩していた三木だ。引き攣った顔。そりゃそうだろ、男に告白されるなんて。
「あっ、でも僕引っ越すから!もう会わないから安心して」
それだけ言うと俺は三木から走って逃げた。
三木のことは好きだった。いつもケンカするのも気を引きたかったからだ。どうにもならない気持ちをぶつけていた。自分の気持ちを知られたら、きっと壊れてしまう、とずっと思ってた。
だけど引っ越しが決まって、けじめをつけたくなった。今考えるとその頃はもう、気持ちが薄らいでいたのかもしれない。
最後の三木の顔を思い出しても、不思議と涙は出なかった。だけど、たまらなく明生さんに会いたくなった。明生さんが『頑張れよ』と応援してくれたとき、僕は吹っ切れたんだ。告白して、撃沈してもいいって。
ねぇ、明生さん。
何であの時、麦茶こぼしたの?
畳の上でうたた寝していた俺に、何でキスしてきたの?
三年、別の街で暮らしても、あの夏の過ごした日々を忘れられなくて、僕はこうしてまたこの街に戻ってきた。
小さな駅から歩いて十五分。
前方からスマホを眺めながら歩く、トートバッグを掲げた明生さんが見えた。
僕は思わず、駆け出していた。
ねぇ、たくさん話したいことがあるんだ。今日、泊めてくれる?
【了】
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