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シセイカンシセイドウ
『死』が悲しいという感覚がわからない。
「のは、たぶん身内が亡くなった経験がないからだと思ってたんですよ」
つとめて朗らかに話す私の目の前にいる紀子さんは、涙を零しながら目を丸くしている。
「父も母も健康でまだまだ死にそうにないし、父方の祖父母は私が生まれる前に二人とも亡くなってるし」
今日は紀子さんの恋人の通夜だ。凪いだ心を感じながら、話を続ける。
「母方の祖父がずっと、寝たきりの状態が続いているんですけど、母は三女でお兄さん夫婦……私から見れば伯父さん夫婦ですね、がずっと同居してらっしゃるので、正直私にはちょっと遠い話だなーというか」
続ける。
「あ、誤解しないでくださいね! 別に介護の押し付け合いとかなかったと思いますよ。伯父さん夫婦はずっと、おじいちゃんが全然元気なころから同居してて、他のきょうだいは結婚やら就職やらと同時に家を出ていったってだけです。うちの父、転勤族でしてね、双方の実家に里帰りすることがそうそうなかったんです」
紀子さんは特段整った顔立ちというわけではないけど、小柄で黒目がちで、小動物のような愛くるしい印象を受ける女性である。一言で表現すれば「守ってあげたくなる」。
でも、その見た目から想像されるよりも、ずっとしっかりした人なんだなと思う。
ドライブデート中、交通事故に遭って。紀子さんも結構な怪我をして、隣では好きな人が死んで。そんな状態でも通夜に来たから。人々の好奇の目線に晒されながらも、決して下を向かないから。涙が滲んで、溢れても。
「話を戻しますと、まあだからいつおじいちゃんが亡くなったって言われたとしても、そんなに悲しくはないと思うんです。悲しくない自信があるというか、逆に接点の少なかった私なんぞ悲しんでも失礼な気がするというか」
「……失礼?」
紀子さんが口を開く。涙交じりのソプラノボイス。いやあ、声の印象も「守ってあげたくなる」だ。これは愛おしくなる。
この段階にあって、紀子さんの死んだ恋人の気持ちが理解できてしまうあたりが、私が親戚友人その他関係各所から『頭おかしい』『心が疲れてる』と評された理由なんだろう。
そう言われても、私は至って冷静だ。ただただ、目の前で泣いている紀子さんの涙を止めたい、それだけなのだ。
「だって、さして仲良くもなかった人間が急にやって来て、お気の毒にだのご愁傷様でしただの言うんですよ? そんなん言ったところで亡くなった本人的には、『いや、おまえと私はそんな言葉掛け合う仲じゃなかったでしょ』ってなると思うんですよ」
あ、葬儀会社の人が走ってくる。ここから連れ出されるのは紀子さんか、それとも私か。
「まあ、回りくどい言い方になりましたが、つまり――」
葬儀会社の人と一緒にやばい顔で向かってくるのは、父と妹だ。ああ、これなら、退場者は私だろう。あの二人は母と違って、私をかわいそうな人扱いしない。
止められる前に、紀子さんに伝えなければ。
「今日は来てくれてありがとうございました! 近しい間柄の紀子さんが来てくれたこと、故人も喜んでいると思います、絶対」
父に腕は掴まれたものの、妹に口を塞がれる前に、一番いい笑顔で言うことができた。
今日は紀子さんの恋人の通夜だ。すなわち、私の旦那の通夜である。
初めて身内の死を経験したわけだが、思っていたような悲しみや喪失感はない。寝たきりのおじいちゃんほどではないけれど、結婚から五年、接点が割と減っていたからだろうか。
紀子さんという恋人がいたことへの怒りもない。あるのは、ただ一人の人の命が消えて、もう会わないんだな、というそれだけの感想だった。寂しくもなかった。
そんなことより私は紀子さんの精神状態が気がかりだった。いや、身体も勿論心配だけれども。
私の家族、旦那の両親、双方の友人会社関係者らからの痛い視線に耐えながら、通夜に顔を出した彼女。真横で恋人が絶命するのを見た彼女。
真面目な人だな、と思った。それこそ、なぜ不倫なんぞしてしまったのだろうと思わせるほどに。
でもまあ、それが「恋に落ちてしまった」ということなのかもしれない。それなら仕方がない。旦那はこの度お気の毒でしたが、好きな人とのデート中に死ねたのだから、私と死ぬよりは幸せだっただろう。うんうん、よかった。
紀子さんが最後にどんな顔をしていたのかは、妹に頬をぶたれたせいで見えなかったけれど、野球で言えば三塁すべりこみセーフだ。私の勝利です!
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