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結局、駅員には聞きたいことは教えて貰えないまま待合所に戻って来た。
窓から見える夏の夕暮れ空と、どっしりとそびえる入道雲。
ヒグラシの声も、リリリリと震えるように鳴くクサヒバリも、何もかもがこの世のものに思えなくなる。
『烏崎はあの世とこの世の境目』と言った柏木の言葉が脳裏に蘇る。
身体の底から背中にぞくぞくと冷たい感覚が走る。
ベンチに置かれたぺしゃんこの座布団に座り、ノートを開いた。
「誰の字なんだよ」
パンッ
何かが弾ける音。前回は待合所の外から聞こえたが、今のは明らかに中で鳴ったが、もちろん誰もいない。
天上の隅にある大きな蜘蛛の巣にさえ、蜘蛛の姿は無い。
もしかして——
僕はテーブルにノートを置いて、鉛筆を手に取った。
八月十九日。なにかの気配がする。誰かいるのだろうか。
そこまで書いて、手が止まった。
この人であって欲しいという人物の顔が浮かぶ。そして、書きかけのその文章の後に付け加えた。
美咲がいるのだろうか、と。
鉛筆を置いて、じっとノートを見つめていた。
ふと腕時計が目に留まる。
以前ここに来た時に壊れたと思っていたが、家に帰ると正確な時間を刻んでいた。
だが、どういう訳かまた四時二十四分で止まっているのだ。
腕時計を外して調べてみようかと思った時。
ノートに文字がじわりと浮かんできたのだ。
薄墨が水に滲みながら浮いてくるみたいに、ゆっくりと次第に濃くなる。
久しぶりだね。
僕はその場に膝から崩れ落ちた。
嘘だろ、美咲がいるのか?会いに来てくれたのか?どうしよう。会いたかったからここに来たというのに、腰が抜けて立ち上がれない。
駄目だ。美咲が来てくれたんだ。早く、早く返事をしないと。
テーブルの脚につかまりながら、何とかよろよろと立ち上がり、テーブルに身体を預けながら鉛筆を握る。
掌にべっとりと付いた汗が、ノートに染みを作る。
あの時は、ごめん。助けられなくてごめん。怖い思いをさせてごめん。
書きながら、額に噴きだす大粒の汗を腕で拭う。
前髪の生え際までびしょ濡れだ。
ごめん。ごめん。何度書いても治まらない懺悔の念が溢れる。
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