首吊りバルーンの謎

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「一線を越える、というものを僕は常に考えているのだよ。木崎、君はどう思う?」  江良理一(えらりいち)はデスクに向かいながら訊いた。江良は液晶画面とにらめっこをしている。エナジードリンクの空き缶、資料や各種請求書、どこからか集めてきたガチャガチャの景品。乱雑という言葉がしっくりくる。江良の乱雑さは整理整頓にとどまらず、彼自身の外見にも反映されている。涼やかな切長の目と艶っぽい口元のほくろ。薄くしなやかな肢体。薄氷のような見た目と裏腹に、天然もののクセ毛に毛玉だらけのスウェット。大ぶりな黒縁眼鏡。  木崎は過去に、お前は磨けば光る逸材なのになぜ自ら汚泥をまとうのかと尋ねたことがある。  ──僕が見ているものは僕の作品だけだから。  江良は愚直なまでに自分自身を顧みず、仕事に一点集中している。しかし、江良の熱意は現実の仕事に結びつかない。新人賞を受賞したWEB小説家とはいえ、二作目以降につながらない。世知辛い話である。 「なあ、木崎。僕の話を訊いているのかい?」 「あ、ああ。ええと一線を越える話だろう? 次回作の草案でも思いついたのか」  「厳密にはネタ出しの段階だが。僕は常に『リアルじゃあなくてリアリティ』を追求する。言葉を紡ぐことは誰にもできる。そこに自分の体験が合わさることによって、個性が生まれ、やがて作品になる……と僕は信じている。もっとも、物書きだけで食っていけていない僕が語る資格はない。二流小説家以下の存在だ」 「まあ、そうだな」  木崎は曖昧に肯定する。江良のシニカルな言動には慣れている。学生時代からの付き合いがある木崎にとって、江良の卑下癖は「ああ、またか」と聞き流せる程度のものだ。実際江良自身も言葉にすることで発散させているため、ふたりの間で大きなトラブルはひとつもなかった。 「それで? 一線を越える話ってなんだ。俺が訊いてもいいものなのか?」 「君は僕の同業者だろう」  キーボードを打つ手を止め、江良が振り返る。 「公務員は副業禁止だろう、木崎啓次(きさき けいじ)」 「──副業じゃあない。小説家の友人にアドバイスをするだけだ」 「アドバイス、ね。まあいいや。話を戻そう。時に木崎。君は一線を越えようとしたことはあるかい?」 「一線を越えるってのは自殺のことか? それとも他殺か?」 「どちらでも」 「俺は今のところない。そりゃあ生きていれば一度は考えることだが、あくまで脳内で思うだけであって、実行にまで移す人間は限りなく少ないだろう」 「なるほど。とはいえ死体が出なければミステリにならない」 「死体が出ないミステリだって山のようにあるだろう。むしろ本格ミステリのほうが万人受けしない。小説一本で食っていくならば商業的に売れるものを書くべきじゃないか?」 「僕は売れなくてもいい。本格ミステリを書きたいだけなんだ」
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