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********************  少年野球の世界でも、前期のリーグ戦が幕を開けた。  何とはなしに観ていた朝の情報番組で、お天気キャスターが今年は雨の多い春だと言っていた。大会日程は予定通りに進むか、微妙に心配だ。 「おし」 殆ど唇も動かさずに声にし、玄関ドアを開ける。今日の空はギリギリ曇り空。降り出しさえしないでくれれば、文句なしの試合日和だ。 「指導者としてのデビュー戦、試合日和でよかったな、宝田コーチ」 いつの間にか、平原が隣に立っていた。 「……俺の心読むのやめてくださいよ」 各々のポジションに散っていく子供たちの背中から視線を外さないまま、応じる。 「心?」 「何でもないすよ」 その中心、マウンドに駆けていく背中の「1」。最近、青真の声が少し掠れるようになったと思う。その声が、完全に子供のものではなくなったら。早熟と幼さの綱渡りの心を守るため、無意識がその声のどこかに隠した棘が、陰鬱な静謐の上に着地してしまうなら――彼の、兄のように――  その想像に、煙を吸い込んだような曖昧な苦しさが襲う。  振り切るように小さく息を吐いて、またマウンドを注視する。相変わらず、不気味なほどに揺らがない眼はでも、出会った頃より少しだけ、その丸みを削がれつつあった。  今は決して、自分の視線と交わることのない、黒い光から。それでも目を離すことが、できない。 「青真さん……?」 四回表。声を掛けることもできない様子で、陽人が呆然と呟く。 「陽人、準備」 歯ぎしりを抑えながら低く言い放った。平原が無言で頷くのが、横目で見えた。陽人は我に返ったように投球練習に向かう。  陽人にも平原にも一瞥もくれず、鷹彦は広いグラウンドのただ一点――球場内の全ての声から――歓声、怒声、嘆息さえ――切り離されたマウンドにたった一人で立つ孤独なエースだけを見つめる。  さっき三塁打を打たれてから、もう二人四球で歩かせている。小学生の試合と思えば、そう驚くことでもないかもしれない。  しかし今投げているのは「市川青真」だ。  肩で息をするその姿に、誰もが尋常ではない様子を感じ取っていた。  いつも、他の何も見えていないかのように真っ直ぐ十六メートル先を刺す視線が、今は帽子の影に沈んで見えない。  青真がこれほどまでに自らに打ちのめされているのは、抜けられないどつぼに嵌って崩れるという体験を、今初めてしているからだ。  今まで誰にも気付かれなかった――今も恐らく、いやきっと鷹彦にしか見抜けていない――この少年の脆さを――凡庸さを、鷹彦ははっきりと確信したのだ。  同時に、自分の中に渦巻いた、醜い欲のことも。  ここで終わる存在ではない。  しかし、青真はその兄と同じにはなれない。  マウンドの、そのあまりの孤独に震えるつまらないちいさな幼児のようにも見えたあの日の姿が、忘れがたく心に引っかかっていたが、あれから数日を経て、青真はいつも通りに戻りつつあった。  偶々、調子の悪い一日だったと、思い過ごすこともできただろう。  でも。 「青真」 傾きかけた陽の中で、表情のない双眸がこちらに向く。向き合った二人の横を、後片付けの声、挨拶を交わす声が次々と通り過ぎては散り散りに遠ざかっていく。 「お前はこれから中学生になって、高校生になって、それでも野球を続けるんだろう。続けて、どうなりたい? どこに行きたい? 甲子園に行きたいか? プロになりたいか?」 「は……」 ――俺は、何を言おうとしている。 「兄貴と同じように、そういうところを目指しているのなら……お前はあいつと同じ場所にまでは行けない」 ――相手は十二歳の子供だ。 ――やめろ。これ以上―― 「『市川弾希』の弟って、それ相応の才能なんだって、兄貴同様の神童って、思われてきたんだろう。でも俺には――誰に分からなくても俺には、分かる。お前は本当は、天才なんかじゃない。いつかどこかで限界がきて、ごくごく平凡な挫折で道を断たれるよ」 青真は唇を引き結んだまま。当然だろう。  それでも鷹彦を捉えて離さない視線と、睨み合った数秒ののち。 「……俺は、兄貴の背中を追っていたつもりはありません」 「追ってるさ。追ってるどころか、お前は、兄貴の影に雁字搦めだよ」 「っ……!」 声にならない声を口の中だけで吐き出して、青真の視線はその鋭さを増す。 「俺が今言ったことにも、本当はどこかで気付いてたんじゃないのか? お前んちのお母さんに会って変だと思ったんだよ。家族の中心はもうずっと、今だって、『本当に才能がある』兄貴の方なんだろ、お前じゃなく。『天才の兄の影で燻る弟の不遇』――それがお前の背負わされた、ドラマなんだよ」 「……ですか」 一瞬目を伏せるのと同時にぽそりと返った言葉が聞き取れなくて鷹彦が黙っていると、再びあの真っ直ぐな視線を上げた青真の声が、震えるような怒鳴り声になった。青真が声を荒げることなど本当に珍しいことだった。 「なんで宝田さんに、俺の限界を決められなきゃいけないんですか。ドラマから抜け出せないのは……『悲劇の控え投手』って、そんなくだんないドラマに取り込まれたままなのは、宝田さんの方じゃないですか……!」 「そうだよ」 平坦に遮った言葉に、青真の大きな眼に載っていた感情に浮かされた熱が揺れて、そしてすっと引いていった。 「お前と俺は、何も変わらない。お前は俺と同じように、本当の天才なんかじゃない。お前は、兄貴の側じゃなくて、俺の側の人間だって、そう気付いた時から、多分俺は……」 言葉が途切れる。  この気持ちは、何と呼ぶのが正確だろう。  伝えてしまったら、もうきっと、後戻りはできないだろう。 「俺だって勿論、青真には今よりもっと上手くなってほしいし、強くなってほしいよ。でも……それでも、俺の言葉が、お前にとっての呪いになるとしても、俺はお前を、自分の元に繋ぎ留めていたいって思ってしまった」 ……あいつは、俺の手の届かない場所に、飛び立っていってしまったから。 「……俺ほんと、ダメな大人だね。一応指導者なのにさ、こんなずるいこと考えてたなんて。俺がお前に向けてる感情が、お前が俺に向けてる感情と同じものなのかどうかは、正直分からない。好きとか、そんな言葉が正しいかどうかも。でも一つだけ言えるのは。お前を、失くしたくない。行かないでよ青真。今はまだ、俺に見えるところに、俺が触れるところに、いてよ……」 弱々しく消え入るような声を吐き出す目の前の青年の姿に、青真は戸惑った。  ――これが、ずっと見てみたかった姿で、させてみたかった表情(かお)の、はずなのに。 「……素直には喜べない表現で、俺を喜ばせることを言わないでくださいよ」 それでも、手を伸ばして触れた先――初めて優しく、包み込むように抱き締めた自分よりずっと大きな身体の仄かな熱に、溶けあって区別のつかなくなる二つぶんの鼓動に、気持ちが凪いでいくのが分かると同時に、どうしようもなく涙が零れそうだった。 「宝田さんは、可哀想な大人ですね。俺に会わなければ、あんたは野球、辞められたのに」
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