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 こいつは確実に、間違いなく。  選ばれた側の人間だと思った。  およそ十二にもならない子供のものとは思えない球速。  何より投げる時の、眼だ。  人はこれほどまでに揺らがぬ真っ直ぐな瞳で、迷いのない軌道で、手の中に握った小さな白い生き物を、放れるものなのか、と。  平原の言ったことは、誇張でも何でもなかった。  この驚異的なセンスは、完成形ではないのだ。この投手は、たったの、十二歳の少年なのだ。  こめかみを汗が伝う感触。鷹彦は我知らず、ごく、と喉仏を上下させて唾を飲み込む。  この投手を自分の手で育てられる――化けさせられるチャンスが目の前に転がっていて、それをみすみす逃すなど、余程の愚か者のすることだ……!  それでも思ってしまった。頭を過ってしまった。 「宝田さん――宝田さん、どうしました」 立ち竦んだみたいに、その場から一歩も動けなくなった鷹彦に、青真が声を掛ける。その声は水中で聞くみたいに、遠く、不明瞭に響いた。 「青真」 手招きして、近くに呼び寄せる。  ――速球ストレートの球威でごり押しするタイプか。 「俺市川とは付き合い長かったのに、弟がいるなんて本当に知らなかった」  お前は兄貴に似てないと言われるらしいな。確かにその黒()がちな大きな眼が物語る勝気さは、市川からは露ほども感じなかった要素だ。 「こんだけ歳が離れてるんだから、知らなくても不思議ではないでしょう。兄貴や宝田さんがアイルズにいた頃って、俺幼稚園に上がるか上がらないかですよ」  でも少なくともお前の球は、市川に――お前の兄貴に似てるよ。 「宝田さんさっき、俺に会ったことあるのかって言いましたよね」 「え」 考えたことを、見透かされたのかと思った。 「俺も、宝田さんのこと知ってましたよ」 「あいつが家で何か、俺のこと話したのか?」 俺には、弟がいることすら、教えなかったのに。 「あの人が、外での出来事とか家族に報告するタイプに見えます?」 ……何だ、あいつ、家族とすらまともに話さねえのかよ。 「だから宝田さんを知ったのは、『甲子園への切符』を観たからですよ」 夏の甲子園の期間中、試合や各校の練習風景を取材し、手紙に託した選手の言葉や、時には敗退したチームの最後のミーティングの様子をも紹介する『白熱甲子園』というテレビ番組のことは誰でも知っているだろう。『甲子園への切符』は、その地方予選版だ。 「ほらあの、『エースと控え投手の絆』みたいな回で、兄貴と一緒に特集されてるの、観ましたよ」 表情の乏しい子供だと思ったのに。そう言った時の青真は確かに、まるで笑うみたいに、唇の端を僅かに持ち上げていた。 「……青真お前は、人がなぜ高校野球を――縁もゆかりもない知らんガキが野球してるところを、見たがるんだと思う」 問いへの答えはない。 「人はそこに分かりやすい感動を、絵に描いたような青春を求めるからだよ。ただ野球をするには重くて邪魔な荷物――ドラマを背負っていればいるほど、見てる方にはウケる」 挑戦的な表情(かお)の上で、眼は笑っていない。出会ってから今まで、青真のこの眼はほとんど変わらない。何があろうとこちらが怯むほど真っ直ぐに相手を見据える、深い黒の瞳の――冷たさと、暗さ。 「野球を続ける限り、お前はこれからいくらだって、そういう安直で安いドラマに取り込まれていく、潰されていく。そのことに気付きもせずに、無邪気にあんな特集のことを語れるなら、お前はまだまだガキだな――幸運なことに」 少年特有の大きな眼が、僅かに眇められたのは一瞬。すぐにまたあの、笑わない瞳で笑って、ただ一言が穏やかに返る。 「俺は憧れの人に会えてうれしいですよ、宝田さん」 「宝田さ~ん、大丈夫でした?」 ひゅん、とボールを放ったかと思うと、陽人は間延びした声と共に鷹彦を振り返った。  今日はひとまず、野手と掛け持ちの者を含め、鷹彦が一人一人のレベルを順に確認しようということになったのだった。 「何が」 「自分の前、青真さんだったでしょうー?」 「だったら何だ」 「いやその……ちゃんと会話っていうか、イシそつー? できたんかなあって」 ……ああ、そういう。 「あの人正直……ちょっと、ほんのちょぉーっとだけ、怖くないです? ……あっあの、別に悪口とかじゃないっすけどっ! えっと、その、オーラ? 的なものがすごいせいなんでしょうけど。自分ですら時々、話しかけていいんかなーって迷う時ありますよ」 「別に。ああいう何考えてるか分からねえ奴の相手なら慣れてる。あいつの兄貴も、全然喋んない根暗だったぞ」 「へえ! 高校野球のスターでも、案外素顔はそんな感じなんすねえ」  ……スター、ねえ。俺たちは甲子園の土、踏み損ねてるんだけど。 「陽人、お前は逆に喋りすぎだ。投手なんてのはな、多少寡黙なくらいの方が……モテるぞ」 「え! そうなんすか!」  そうは言ったけど。  俺が女の子なら、市川や青真みたいな奴よか、断然、陽人みたいなタイプにいくけどな、と鷹彦は思い直した。
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