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「じゃあしばらく、俺の部屋にいるから」 後片付けを手伝おうとする鷹彦の手を、青真はちょっと意外なほどの力で引いて制止する。 「でも、あの……」 「ああ、いいのよいいのよ。この子もたまには、誰かにゆっくり遊んでもらわないと」 皿を下げながら笑う青真の母の態度は、なるほど確かに、鷹彦のことを青真にとっての単なる「兄貴の友達」として扱ってのものだった。 「たまには遊んでもらわないと」などという言葉の裏にあるのは、子供らしさを歪に欠かした青真への心配とも、畏怖ともつかない眼差しなのだろうと思う。  鷹彦の腕を引く力が物語る強情さとは裏腹の、瞳の暗い光が真っ直ぐにこちらを見上げる無表情。  半ば押し込まれるようにして、階段を上がった先の青真の自室に足を踏み入れた。  五、六畳ほどのその部屋はむき出しのフローリングの上にベッドと学習机が置かれただけの実に簡素な空間だった。机の上に転がっているボールとか、その足元に息を潜めるように置かれたスポーツバッグの存在が、辛うじてこの部屋にちゃんと持ち主がいることを示しているようだった。  鷹彦は一瞬の逡巡ののち、ベッドの前のスペース、冷たい床に直接腰を下ろした。 「で。お前の悩みって、何なの」 鷹彦の問いに、青真は自分は座らないままに少し首を傾げた。 「あー……そういえばそんなこと言ったか……」 「は?」 「すみません。俺に悩みなんてないですよ」 声色の一つも変えない無表情がぬけぬけと答える。 「はァ⁉ お前がああ言うから、俺はお前ん家までついてきたんだろうが」 「だから……宝田さんを誘うための口実だったって、言ってるんですよ」 「いや意味が……」 不平を全部言わせてくれる隙も与えず。鷹彦の視界は唐突に揺れ、背中に芯のある柔らかさが触れて、それがベッドのへりだと気付く。  まるで磔にでもされたみたいに。覆い被さられ、見下ろされ、動きを封じられていた。  ほんの十二歳の子供の腕の中で。  常とは逆転した位置関係で、感情の読み取れない大きな眼は、何かの力を持ってでもいるみたいに自分をがちりと捉えていて――それになぜか、うちつけられた背筋を何かがぞくりと駆け上った。 「これを悩みって言っていいなら、ですけど。俺の悩みはじゃあ、宝田さんに触りたくて触りたくて、しょうがないことです」 「は……」  さっきから、意味が、分からない。  回らない頭で追おうとした思考を、何かに遮られる。  唇に熱が触れる感触。  冷たい印象すら与える小綺麗な顔の上の、青真の薄い唇はでも、ちゃんと子供なりの――もしかしたらそれ以上の体温を持っていた。  触れるだけのくちづけは、ほんの一瞬で静かに離れていった。 「……あまり、大人をからかうんじゃねえ、クソガキ」 解放された唇でやっとのこと吐き出した非難は、思ったよりもずっと空しく響いた。 「俺は大真面目ですよ」 宣う声も表情も淡々として、青真の言葉の真意が分からない。  いや、からかわれた方がまだましだと、信じたくないと、思い込もうとしているのかもしれない。 「俺言いましたよね? 宝田さんは、憧れの人なんです。テレビで初めてあなたを見た時から、俺はずっと、あなたに会いたかった。触れたかった」 「あ……憧れって、そういう……ひっ!」 不意打ちで肌を何かが這う。  Tシャツの裾から滑り込んだ掌の温度は生温く、マメを潰した指先が腹筋をすっとなぞる。 「っ……お前マジでいい加減にしろよ! こんなの……まちっ、間違ってる」 「……なんでですか」 「この状況。襲ってきてるのはお前の方でも、捕まるなら俺の方じゃねえか」 「あー……」 青真はため息混じりに抑揚のない声を吐き出しながら、鷹彦から身体を離す。 「それなら余計、ちょうどいいじゃないですか」 「は……?」 「このことが知れたら宝田さんは捕まります。でも俺は絶対に、誰にも言ったりはしませんよ。俺がコーチのお気に入りだからエースなんだって、思われたくもないですから。これで秘密を共有する理由ができたじゃないですか」 表情も声音も変わらない一方的な物言いに、一切の感情は見えないのに、ただ逆らうこともできなくなる静かな独善が横たわっていた。 「……そんな理由でエースでいられてるって、お前の球見た奴が思うかね」 大人である自分が、子供の青真に返す返答としてはあまりにも拙くて的外れだって、自覚はありながらも鷹彦はその一言を絞り出し、Tシャツの裾をつん、と伸ばして立ち上がった。
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