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 中体連の軟式出身にしては異例に近く、弾希は修訓高校からスカウトされた。  どのみち野球は続けるつもりだったが、そのことを知った瞬間から、鷹彦の中には修訓以外の選択肢がなくなった。たとえ野球で入学できなくても学力で入試を受けてでも修訓に行くつもりだった。とはいえ、セレクションの末どうにか修訓のスポーツ推薦枠を掴み取るのがやっと、という結果に凹まなかったと言えば嘘になる。  ああ俺はもう、あいつと横並びなんかじゃないんだ。  県内有数の強豪に、行けると決まったはずなのに。心の中には屈託ばかりが、降り積もっていった。 「タカちゃん!」 あの耳にまとわりつくような不愉快な声が背後から聞こえた。返事もしないままに振り返った。どのあたりから追いかけてきていたのか、軽く息を弾ませている弾希の左肩から、カバンの紐が少しずり落ちていた。  部活の引退後、たぶん初めてまともに顔を合わせて向かい合った二人の横、フェンスの向こうのグラウンドを、後輩たちが駆け回っていた。その掛け声は、打球音は、例えるなら玩具のピアノで弾いた曲を聞かされたように。妙な現実味のなさだった。  この頃の自分はまだ、野球を好きだっただろうか。 「タカちゃんも修訓、行けるんでしょ?」 「……それ聞くためだけに、俺のこと追いかけてきたの?」 「や、そのっ何ていうか……」 弾希が俯くのを見て、どうせこいつはまた、言葉にするのを諦めて、黙り込んで引っ込むんだろうと思って舌打ちしかけた、のに。 「し、修訓でも、さ。タカちゃんと、俺で……またダブルエースやろう、よっ!」 まるく見開いた眼が揺れるのを、見られたくなかった。見せたくなかった。視線を逸らすように、背を向けた。 「何それ。さっむう」  ――俺は、あいつの言葉をはねつけたのに。あいつの言葉は、気持ちは、どこまでも純朴で、何の屈託もなかった。  弾希と自分の、「本物」になれる人間とそうでない人間の違いがこういうところにあると、知ってしまった。  人の予感なんてものは悪い方ばかりが的中するもので、修訓野球部入部後、この違いは分かりやすい形となってより開いていくことになる。弾希が背中に負う「1」を見送る状況も心境も、これまでとはわけが違った。今度の自分は、単なる控え投手。  ――違う。最初から、俺は片翼などではなかったんだ。本当は元から、あいつと俺とでは、立ってる場所が全然、違ったんだ。  才能は、教育を無力にする。  大人が野球を通して子供や若者に教えようとしていることは、気持ちの強さとか、努力の大切さとか、仲間との友情なんだろう。  そんなものは全部、弾希の前では意味を失くす。  闘志もなく、緘黙に近く誰にも心を開かない。それでも、弾希はエースに選ばれる。  ものを言うのは気持ちでも努力でもないと、幼い頃から教えられ信じてきたものはただの幻想だったと。  絆という言葉の本当の意味とは。側にいるだけ、ただ互いを壊していく存在なのに、どうしても離れることができずに、重い鎖となって一日一日ゆっくりと、自分の首を絞めながら記憶の跡をその皮膚に刻んでいく、そんな関係のことだ。  だから『甲子園への切符』で自分たちがあんな切り取られ方をした時には絶望した。  誰かが作った「理想の球児像」というのは確かにあって、どうにかしてそれに当てはまらなければ、どうやら俺は赦されないらしい、と。  とにかく、まだ地方大会の段階で、弾希はそれほどの注目を集めていた。高校最速に迫る球速を持つ男の話題は、地元紙の一面どころか全国紙の上にも踊り、修訓の甲子園出場は確実視されていた。  地方大会決勝戦の、あの日までは。  それまで調子よく奪三振数を重ねていた弾希が、崩れた。七回で修訓は遂に逆転を許した。  何かがおかしい。  十歳のガキの頃から一緒にいるのだ。鷹彦には直感的に分かった。 「おい市川っ……」 ベンチで掛けた声は無視されかけた。一瞬逡巡し、その右手首を掴む。  右手中指、その爪の上を走る一筋の鮮血。割れた爪の間から、肉が覗く。思わず、小さく息をのんだ。 「お前これ……」 「……投げられる、大丈夫、だから」 「でもっ……!」 「エースは俺だ」 相変わらずの、静かな声だった。しかし鷹彦を見下ろす眼は感情に燃えているのになぜかどこまでも冷たく。  あの男のマウンドへの執着を、奥底に隠した傲慢が剝く牙を、初めてちゃんと、目の当たりにした。  監督の前で、背中の「1」が微かに震えていた。「投げられます」という一言だけが、鷹彦の耳にも届いた。  鷹彦のその夏最初の登板は、地方大会決勝戦の八回となった。  キン、  マウンドの上で聞く快音に、自分の遥か頭上でアーチを描く白球に。何もできないのだと知った。  あの日、投げているのが自分でなく、弾希だったら。修訓は甲子園に行けた。  そんなの分からないじゃないかと言われるかもしれないが、少なくとも鷹彦にだけは、その確信がある。自分がマウンドに立っている限り、修訓は甲子園には行けなかった。  修訓監督のこの決断はその夏、人々の間に物議を巻き起こすこととなった。図らずも、甲子園に出るよりもよほど注目を集めてしまった。それには弾希本人がはっきりと「投げられる」と発言していた事実が大きい。鷹彦も、あの「投げられる」という言葉は嘘じゃなかったと思っている。  それでも、世論は概ね監督の判断を評価する方向へと動いていった。まだまともな球数制限もなかった時代で、地方大会を弾希はそれまで一人で投げ抜いていた。監督の判断は、一つの才能を、その将来を守るものだったと。  その意見は正しい。  鷹彦にもそれは分かっている。それでも、時々考えてしまう。将来って何だろう、って。  少なくとも、鷹彦自身には将来はなかった。多くの凡庸な選手には、将来などなく、現在しかない。  球数制限を設けようと、大会運営が見直されようと。人は答えには辿り着かないのではないかと思う。  なぜならそもそも根源的な問いはそこにはないからだ。あの最後の夏以来、心に燻っている問いの正体は。  大多数の凡才の中で孤独に突出した天才の、扱い方――それが生かし方なのか殺し方なのかさえ。本当は誰にも答えが出せないのだと思う。  ――なあ市川。お前の隣にいなきゃいけなかった俺は、不幸だった。でもお前も同じくらい……いやそれ以上に、不幸だったはずだよな。  今でも目に焼き付いている光景は、マウンドで見上げた白球の放物線でも、大歓声が渦巻くスタンドでもない。男の指に滲み、流れる、あの暴力的なまでの赤の鮮やかさだ。  プロか、大学進学か。甲子園の土も踏んでいない弾希の動向は、ちょっと過熱と言えるまでに人々の興味の的となった。 「お前結局、大学行くのかよ」 夕暮れの土手、制服越しに肌を刺す草の上に並んで座っている、そんな漫画みたいな光景は、薄ら寒かった。 「馬鹿だなーぁ。プロ行けるチャンスが目の前に転がってるのに」 数秒の沈黙が流れる。鷹彦にはそれが、弾希が思いを言葉にまとめている時間だと分かるから、特に急かしもしない。 「自分がプロに行くとかは……正直よく分かんなくて……でもとりあえず、野球やめたくは、ない」 「……何それ。きしょ」 弾希はまた黙り込む。それでも鷹彦は、冗談めかして笑い飛ばすこともしなかった。 「……タカちゃんは、野球、続けないの?」 「あ? やるわけないじゃん、やめるよ、やめる」 弾希がその時どんな表情(かお)をしていたのか、鷹彦は知らない。目を逸らしたからのような気もするし、ちゃんと見ていたはずなのに忘れてしまったような気もする。  やっと、こいつと離れる理由ができる。  それは鷹彦にとって解放であったはずなのに。足元の草をむしりながら、あー失くしてしまったんだなぁとなぜか思った。
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