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雨の音を聞いていた。
寝そべって投げ出した足の先、窓の外では雨が降り続いている。
雨の音に紛れて、スタンドの歓声が、放送席の興奮気味のオッサンたちの声が、乾いた球音が画面から流れ出してくる。
点けっぱなしの高校野球中継を、見ているわけではなかった。
気だるい昼下がりを取り囲む雨のカーテンの中、眠るわけでもないが瞑目した。
甲子園は、晴れているだろうか。
雨が上がった頃を見計らって、鷹彦はのろのろと起き出す。玄関でスニーカーを引っかけていると、コートのポケットの中で携帯が震える。新学期の近づく春休みとはいえ、まだまだ薄手のコートは必要そうだ。
「んだよ」
『宝田、まだ着かねえのかよ?』
「あー……今家出る」
『は? ふざけんなよ』
「だって、さっきまで雨降ってたじゃん。だるかったんだよ」
『呆れた。流石、ダブルエースの片翼くんは相変わらず不遜だな』
「元、な。というか太古の昔。監視されてなくてもちゃんと行くから。切るぞ」
まだ何か言いたげな電話の相手は無視し、携帯をポケットに戻す。
今日約束しているメンツは、気軽な付き合いの大学のクラスメイトたち。テレビの中継の音も聞こえない外に出てしまえば、途端に身体から、野球というものが切り離される。
雨上がりの明るい空に、濡れた地面が光る。微妙に黴臭い空気を、胸いっぱいに吸い込む。
ほらね。この世界ってやつはこんなにも、野球なんてものとは関係なく回っているんだ。
「おいお前……タカか?」
正面から歩いてきた四十がらみの男に突然呼び止められ、鷹彦は間抜けに目を見開く。男が誰であるか、気付くのにかかったのは一瞬。
「平原監督⁉」
平原卓也。少年野球チーム、『楠之台アイルズ』の監督である。
そしてこの楠之台アイルズこそが、鷹彦がかつて所属したチームである。
「いやー、でかくなったなあ。今、いくつだ?」
「……四月から、大学二年ですけど」
「そうかあ。あのチビたちが、もう二十歳になるんだな」
監督はオッサンになりましたね、と心の中で言い返す。鷹彦がチームに所属していた頃、三十代前半だった当時の溌剌とした様子はそっくり削ぎ落とされている。いかに日々子供たちと身体を動かしていると言っても、時の流れには逆らえないということか。
「ていうか、監督が知ってる姿は十二歳の俺のはずでしょう。今ぱっと見で俺だって気付いたの、軽く気味悪いっすよ」
「生意気なところは変わってねえなあ。修訓時代の――十八のお前の顔なら、新聞や何かの写真で見たしな」
修訓高校――甲子園出場の実績もある野球の強豪校。県内の高校から甲子園を目指そうと考えるなら、中学生たちがまず視野に入れて検討する伝統校である。
あの夏も当然、修訓は地方大会で注目を集めたうちの一校だった。地元紙には確か――マウンドに立つ自分の姿も載ったんだったか。
舌の上を刺した苦い味を振り払う。
今の俺には、関係のない話だろ。
「タカは、地元残ってたんだな」
結局少年野球時代の監督とも疎遠になって、こんな基本的な進路の報告もしていなかったことを忍びなくは思うが。
「……野球やんないなら、無理して東京の大学行く必要ないですから」
「……そうか、もう全然、野球はやってないのか」
「はい」
「そうか……」
平原は無駄と思えるほどそうか、そうか、と繰り返し腕組みをした。
……何だ? 俺に何を、言おうとしている――?
「タカ。今からちょっと、時間あるか」
「お前に、会ってほしいピッチャーがいる」
連れて来られたのは、『ランカスタ』のカウンター席。
ランカスターの地の風情などどこにもないここ楠之台で、鷹彦が生まれるよりも前から、喫茶店とも飲み屋ともつかないこの店は何やかんやしぶとく人々に愛され続けている。
しかし鷹彦がランカスタに足を踏み入れたのはかなり久し振りだ。それこそアイルズにいた頃のような幼い時分は、そういえば親に連れられてよくここへ来た覚えがある。
この微妙に薄暗い店内の光景がひどく懐かしくて刺されたように胸が痛い。自分が遠ざかって置き去りにした、思い出と呼ぶには曖昧で混沌とした記憶の、この場所もその中の一つだったと思い知る。
クラスメイトのあいつらに連絡も入れずにドタキャンしてしまった。平原や、「ほえ~~、あんた、あのタカ坊か⁉ いや、いい男になったなあ」と店中に響き渡るガラガラ声で再会を喜んでくれたマスターに聞こえないように舌打ちする。約束を破ってしまったことへの不満ではない。重大な用事でも相手でもないし、普段から自分は傲慢で不遜な元・片翼くんで通っている。
平原についてくるなど、自分の中心を大きく深く抉り取っている傷に、自ら触れに来るような行動を取ったことが遺憾で溜め息が出るのだ。
目の前に置かれた、すり潰した芋でできた簡易的なグラタンみたいな皿には、まだ手をつけていない。押し黙ったままの鷹彦の横で平原はゆったりとコーヒーを一口啜ると、湯気の向こうでまた口を開く。
「もっと簡潔に言おうか――タカ、うちの投手コーチをやってくれる気はないか」
「……おっしゃってる意味が、よく分からないんですけど。ていうか、俺はずっと野球からは遠ざかってたんだって、さっき話したばかりですよね」
「だからだよ」
コト、とカップがカウンターに置かれる微かな音が響く。
「強豪校に入って、甲子園で注目されてプロを目指す。それだけが野球との繋がり方じゃないって、お前にならそのことが分かってもらえると思った」
グラタンもどきもコーヒーも、テーブルの上で息を潜めている。沈黙を埋めるものがない、息苦しさが募っていく。
「だいたいの事情は俺も分かってんだ。その上で敢えて少年野球の指導者にお前を誘ってるんだから、酷だと言われればそうなんだろうな。でも俺は部活の顧問と違って先生でも何でもない、ただの『近所のオッサン』だからな。酷なことだって言うさ」
「ハハハ、いかな鬼監督でも、ここで枝豆チーズつまみながらちびちびビールあおってる姿なんて物悲しいオッサンそのものだぜ」
「鬼じゃないすよ……マスター、今時はね、そういうの流行らないんですよ。マスターこそ、そういう価値観古めなとこ若い子の前でポロッと出しちゃうと、オッサン臭い認定されますよ」
コーヒーとグラタンの湯気に溜め息を紛れ込ませ、鷹彦はオッサンたちのやりとりを受け流す。
「……どうせ、断らせてくれるつもりないですよね」
「とにかく一度、グラウンドに来い。青真を目にすればお前自身もきっと――断るなんて選択の地平になくなる」
だからと言って、本当にグラウンドに来てしまった自分が嫌になる。
――こんなの、まるでまだ未練があるみたいじゃないか。
「おっ、やっぱり来てくれたか、タカ」
余程、俺はここにはいませんでしたという顔をして踵を返そうかと思ったが、歩み寄ってきた平原の無駄に通る声に少年たちの視線が集まり、引っ込みがつかなくなる。
そのまま選手全員に集合を掛けかねない勢いの平原を、鷹彦は慌てて止めた。
「いやっ、今日はまだ挨拶とかいいっすから。まだやると決めたわけではないですし」
「おいおいタカ~。つれないこと言うなよな~」
「あと! そのタカってのも、ガキの前でやめてくださいよ」
「何だお前、指導者としての威厳が気になるってか? やっぱりやる気になってくれたんだな、『宝田コーチ』」
「だから俺はまだっ……!」
鷹彦の反論を遮り、平原が投手陣にだけ集合を掛けた。
いや、遮られた、んじゃない。
「彼」と正対した瞬間から、頭の中の、身体じゅうの全ての中身が真っ白に崩れ落ちて、言葉を発することなどできなくなっていたのだ。
真っ直ぐに立ち、真っ直ぐな視線で俺を見上げる、この少年は。
「こいつが今のうちのエース、青真」
会ったことなど――この眼を見たことなど、あるわけがない。
それなのに――切れ長というべき形よりは多少丸みを帯び、しかしそれは子供らしさを残すゆえの、その眼に湛えられた鈍い光に、本当は見覚えなどないはずなのに。
「俺……君に会ったことがあるか?」
「何ですかそれ。今時ナンパでも、そんなこと言わないんじゃないですか」
答えた声は、確かに声変わりもしない子供のそれなのに、静かで何にも揺らされない平坦さだった。
この声を、この少年を、知っているはずがない……
「あれ。タカはやっぱ、気付いた? こいつ、兄貴にはあんまり似てないってみんな言うのに」
「兄貴?」
平原と鷹彦のやり取りを最後まで聞こうともせずに、少年は一歩進み出てくる。
「新6年、ポジションはピッチャー――市川青真です」
「市川⁉」
訊き返し、鷹彦は物凄い勢いで平原を振り返った。
「ああ、そうだよ。青真はあいつの――市川弾希の弟だ」
知らなかった。弟がいたことさえ。
「なっ……監督が俺に会わせたいって言ってたのって、こいつのことですか? 青真があいつの……市川の弟だって知ってて、俺にあんなこと言ったんですか?」
子供の前だということを一時忘れて声が大きくなった自分に気付き、鷹彦はとりあえず俯く。その顔が見えずとも、温厚で軽薄な平原が表情を硬くしたのは分かった、のに。
「自分! アイルズのもう一人のピッチャー、5年の浅見陽人っす! おねしゃーっす!」
青真の後ろから顔を覗かせて、すばしっこさだけは一級品そうな、「がきんちょ」の言葉そのままの少年が挨拶をねじ込んできた。
「あ、ああ……OBの、宝田鷹彦です。よろしく」
一瞬、その場にいた陽人本人以外の全員が凍り付いたが、冷静さを取り戻すきっかけを得た鷹彦は内心でホッとしていた。チームを救うのはいつだってどんなチームだって、こういう空気の読めないメンバーだ。
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