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彼女はナイフとフォークを投げ捨てた。
「こんなの食べられない。」
何かを思いつめている。
「味は悪くない。でも、洗い損ねのお皿に乗せるなんて。」
「え?」
「このロートルオヤジ。近くが見えないんでしょ?」
そういうと、リビングに立ち去った。
私は主夫。一年半前にリストラされた。まだ定年前だった。この歳だと再就職は難しい。
妻は私より一回り以上若く、才色兼備。絶好調。しかし、ここ2週間程のリーモート・ワークからかどこかに疲れが見えていた。
私たちは周囲からは羨ましがられて結婚した。そして、ついこの間まではいい関係だった。いや、主夫になってからも、私は黒子に徹して、彼女の生活、仕事における優秀なアシスタントでいるつもりだった。
リビングからは少しあからさまな笑い声が聞こえる。彼女の好きな紅茶を入れ、用意してあったデザートを運んだ。
「そう、自分では若いつもりでいるみたいだけど、やっぱり歳なのよねぇ。」
電話をしながらこちらを伺う瞳は冷酷だった。
薄暗い書斎でパソコンを立ち上げた。お気に入りの写真が壁紙だ。はつらつな二人。屈託のない笑顔。愛に歳の差なんて関係ないと思っていた。
「私、すごく疲れているから。一人で寝るわ。」
単調な言葉と共に毛布が飛んできた。
「あなたのいびきで睡眠不足なの。ご本人は関係ないかもしれないけどね。」
閉まりかけた扉から声がした。
「そんな昔の写真、ゴミ箱に捨てなさいよ。」
朝、キッチンに行くとテーブルにはメモが残してあった。
『今朝は、部下達とパワーブレックファスト。晩ご飯もいらない。勝手にどうぞ。』
彼女の携帯に『気をつけて。』と送信したが、返事はなかった。
今日から自粛緩和ということらしい。ニュースには人手が戻りつつある街が映っている。
ところが、午後三時過ぎに突然彼女は帰宅した。
どすんとソファーに座り、壁を凝視している。携帯を持つ指先の動きが速い。
と、寝室に行き、しばらくしてキャリーバッグをひっぱてきた。
「あなたと一緒の屋根の下なんて、息が詰まるから。」
「おい、どこに行くんだ。」
そう言っている途中で玄関の閉まる音がした。
以前だったら、そんな彼女の態度に火を吹いていた。しかし、くだらないことが発端の夫婦喧嘩は後から笑い話にはなれ、そのほとんどがエネルギーの無駄遣いだ。
だがそんな呑気なことではなさそうだ。
× × ×
彼の一挙一動が気になってきた。受け入れられない。
彼がリストラされたのは意外だった。高給取りだったのに、いきなりのゼロ。でも、
それが問題なのではない。その後、気が抜けたようになって一気に歳をとってしまった。彼は気を持ち直して私を一所懸命フォローしてくれた。でも、どこか空回りしていた。そう、私の好きな彼は、どんどん薄れていってしまった。
しかし、会社に行けば、そんなことは忘れられた。確かに家のことを考えなくて勤められるのは彼のおかげだ。でも、今はただの年配家政夫。金魚の糞は切り離したい。
私は一人暮らしの後輩のところに転がり込んだ。いろいろ話もあるし。
「今日の晩ご飯は・・。」
準備を始めたところで、彼女の彼氏がやってきた。
「うちの会社はまだ自宅待機だって言われちゃってさぁ。 あ、お客さん?」
三人で夕食を食べた。
「鍵はポストに入れておいくだされば。」
彼女は、彼氏のところに泊まると言って出て行った。
ツーンという音が耳の奥で鳴っている。
× × ×
夕食後の食器は念入りに洗った。必要以上に。
テレビのニュースはどこも同じようなテーマばかりだ。
彼女からの返信は今日もないままだった。それでも、
『おやすみ。』と送信した。
ソファで毛布にくるまった。寝室に行きたいという気が起きなかった。
パソコンの中の数々の二人のいろんな思い出の写真とビデオ。
だが、壁紙を超える物はなかった。
「全部消すか。」
全ての画像を選択。
その時、ポピンとメッセージ音が鳴った。
彼女から⁉︎ しかし、表示されているのは見覚えのない携帯の番号。
『広沢様、お元気でいらっしゃいますか? 友田です。』
既読にはなっているだろうが、しばらく返信しなかった。
『前の会社で広沢様のチームに何回か参加させていただいた友田です。』
『こんばんは。何か御用ですか?』
事務的に返信した。
『お電話してもよろしいでしょうか。』
OKと絵文字で返信した。年甲斐もないか。
見覚えのある顔が画面に浮かび上がった。少したくましくなっているように見えた。
「お久しぶりです。お二人ともお元気でいらっしゃいますか? お疲れのところ失礼致します。」
「あぁ、あれからすっかり専業主夫だよ。」
「こんな時期ですが、新しい会社を立ち上げたんです。」
「ベンチャーってやつか?」
「ええ、まあそんなものです。軌道に乗るまで少し時間がかかりそうですが、是非、広沢さんにお手伝いをお願いできないかと。」
「リストラされた私に、か?」
「広沢さんは私たちの憧れの存在でした。ですから、会社の判断が納得できず私も辞めたのです。」
「…。」
「お給料はお恥ずかしいぐらいにしか払えませんが。仲間達には了解を得ています。」
心の底では嬉しさと少しの不安が交差している。が、表情は変えなかった。
「一つお願いがある。」
「なんでしょうか?」
「恥ずかしい話だが、最近ワイフに怒られてばかりいる。」
「はぁ? 広沢さんがですか?」
「いや、急に歳を取ったようになってしまってね…。おそらく、君たちにはいろいろと意見するだろうが、それ以上に私にもどんどん意見してほしい。仕事のことだけでなく色々と。私が君たちから吸収しなければいけないもの、いや、させてもらいたいものがたくさんある。」
少し苦笑いの表情を返してしまった。
「広沢さんらしいですね。」
突然、画面にいろんな顔が現れた。
「よろしくお願いします。」
嬉しい合唱だった。
× × ×
夕方。若い部下のマンションに押しかけた。ちょっと強引だったかもしれない。ただ、彼も私に好意を持っているはずだ。それはわかっている。
小さなソファーでファイルの整理をしていると、恥ずかしそうな顔をしてコーヒーを運んできてくれた。
私は、優しく微笑んだ。
「あ り が と う。」
少し妖しい瞬間。ゆっくりとまぶたを閉じた。
ピンポーン。呼び鈴が鳴って彼は玄関に向かった。
若い女の声がする。彼女?
「これ、誰のパンプス?」
「例の美魔女上司が来てるんだよ。年増の。」
声を殺している。
「パワハラとかセクハラじゃ無いよね?」
私はコーヒーカップを倒しながら慌てて席を立った。
「会社関係の資料は全てOKよ。問題ないわ。お邪魔しちゃったわね。じゃぁ。」
彼らに目を合わせずにそのパンプスを突っかけて外に出た。
タクシー運転手との間にあるアクリル板に自分が写っている。
年増? 確かにどこか疲れている風貌だ。いや…。歪んでいる自分の顔から目を逸らした。
あいつがいけないんだ。旦那と共に一気に老けたんだ。怒りで体が熱くなってきた。
エレベーターを待たずに階段を駆け上がった。肩で息するよりも気持ちの方がマッハだった。玄関のドアを思いっきり叩いた。
× × ×
どんどんと叩かれる扉を開けると、そこには妻が右手を振り上げて突っ立っていた。今まで見たことのない怒りの表情だった。
が、私と目が合った途端にひどく驚いた表情に変化した。
しばらく、私を凝視していた。言葉もなく。
そして、ストンと膝まづいた。
「どうしたんだ?」
私も腰を下ろした。一筋の涙が彼女の頬を伝っている。それはまるで無邪気な少女のようだった。
「晩ご飯なら用意してあるよ。昨日も今日も二人分作っておいたんだ。」
彼女の嗚咽が小さなホールに響いていた。
× × ×
扉が開くと、そこには彼が立っていた。私が老けたのはあなたのせいよ!って、殴りかかるつもりでいた。だが、何故か私の網膜には凛々しい彼が投影されていた。
自分の思い上がりだったのだ。
ああ、そうなんだ。
あなたと共に生きてきたから、若くいられたのに違いない。
ごちそうさま。
すっかりと平らげて、ナイフとフォークを私たちのお皿の上に優しく置いた。
彼が立っている流し台の前に並んで立った。彼は黙々と食器を洗っている。私がナプキンを手にすると彼が皿を渡してきた。が、少し汚れが残っている。
「もう一度。」
あぁ、と言って彼は受け取った。嬉しそうに微笑んでいる。
「ゴメン。でもあなただって。」
「わかってる。」
並んで立っている二人の後ろ姿は、今まで以上に幸せそうだった。
終わり
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