これから降りつもるのは

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 3月上旬の雪降る某日、私は心を鬼にした。 「おい、散歩行くぞ!」 私は多良右衛門を強引に散歩に連れていくことにした。しかし、多良右衛門は玄関前にズシンと座り動こうとしない。リードを綱引きのように力強めに引っ張るが、不動である。首に巻いたリードが顔に巻き上がりチャウチャウのような輪郭になっても不動は崩れない。自分から動く気がないなら実力行使だ。強引に多良右衛門を抱き上げようとすると、牙を剥いて「ううううう」と威嚇をし始めた。正直、力抜けたアザラシのような顔で威嚇をされても怖くも何ともない。  この一年一緒にいて初めてのことである。そんなに雪が嫌いなのか? 肉球が冷たいのがそんなに嫌なのか? 3月中旬の春になるまで我慢するしかないと私が諦めた瞬間、家の前を柴犬の小百合ちゃんが飼い主と共に通りかかった。 「あら、多良右衛門くんも今からお散歩? 最近見ないから心配しちゃったわよ~」と飼い主が能天気に述べた。基本、犬の飼い主同士は犬の散歩でしか会わない故に無駄な心配をかけさせてるじゃないか。私が適当に相槌を打とうとした瞬間、多良右衛門は疾風迅雷の速さで小百合ちゃんの元へと駆け抜けていった。リードを握る私の手が食い込む程の勢いである。 すると、小百合ちゃんの飼い主は私に申し訳無さそうにペコリと頭を下げた。 「ゴメンね~ 今ウチの子、発情期(ヒート)なのよ~ 多良右衛門くん、ウチの子の臭いで興奮しちゃった?」 犬の発情期は不定期である。 雌の発情期は犬が野生動物であった時は春期だったのだが、人間社会に取り込まれた後は気温の安定した環境にあるために春夏秋冬いずれの季節でも発情期になるように体が作り変えられてしまっている。 雄の発情期は雌が出すフェロモンによって交尾本能を刺激されることで発情する。それ故に雌が出すフェロモンがなければ発情することはない。雄単独での発情期は存在しないのである。 「じゃあ、ウチの奴近寄らせない方がいいですね」 「でも、多良右衛門くんとだったらお見合いするのもいいかも」 「ははは、多良右衛門はまだ一歳ですから…… もう少し大人になったら立候補させて貰いますよ」と、私は冗談交じりに述べた。 「ゴメンなさいね」 小百合ちゃんは足早に私達の元から去っていった。多良右衛門はと言うと息をゼェゼェハァハァと切らしながら雪についた小百合ちゃんの足跡のニオイを嗅ぎ追いかけようとする。そして、肉球で降りつもった雪を踏みしめて前へ前へと進んで行くのであった。心做しか、顔も元のキリリとした引き締まったものに戻っているような気がした。 もうそこに雪の冷たさを嫌う多良右衛門はいない。 そこにいるのは、発情期(ヒート)のフェロモンによって心が熱刺激(ヒート)を受け、降りつもった雪を嫌う気持ちを溶かし、代わりに恋心が降りつもろうとする男一匹であった。 この日より多良右衛門は外に雪が降りつもろうと構わずに散歩に出るようになった。理由はどうあれ喜ばしいことである。                           おわり
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