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第三章 英雄たち
1
アイデスにそう言われてから三日、僕は僕なりに必死に考えました。自分が小冬に、何がしてやれるのかを。
星真珠を枕元に置いていないのに、小冬の夢ばかりを見ました。彼女の身に起きた恐ろしい出来事が、何度も悪夢となって繰り返されました。その合間に、僕自身の一年生の頃の記憶も差し挟まれ、毎日の気分は最悪でした。
しかしその甲斐あってか、僕は、 四日目の朝に、ついに思いついたのです。
「やあ、いらっしゃい」
インターフォンを鳴らすと、小冬の父はすぐ出てきてくれました。僕を見て、その周囲を見て「今日は人魚姫はいないんだね」と言いました。
僕は手の中のカンペをチラチラ見ながら、一人で来ました、と答えました。
「こ、こ、小冬……さんと、少し、お話させて、もらえますか。に、二階の扉の前からで、で、いい、です。お菓子もお茶も、けけ、けっこうです、ので」
カンペを読んでいるのに、それでも緊張で言葉が震えました。変な顔をされるのではと心配でしたが、小冬の父はこちらが恐縮するほどに、大喜びで玄関を開けてくれました。。
僕は一人で、小冬の部屋の前へ行きました。小冬の父は、下にいるから、好きなだけどうぞ、と言ってくれました。
相変わらず、白い扉は閉ざされています。
僕は、ここに初めて来た時に小冬の父がしたように、まずはノックをしました。
「こ、小冬? 若草、だけど」
沈黙。
「とと、突然来て、ごめん。前も、そうだったけど。あ、だから、前も、ごめん。あの、あのさ、あの時、オレ、人魚姫と来たんだ。あ、お父さんが言ったから、知ってるか」
沈黙。
僕はカンペを開こうとしました。しかし、少し考えてから、やめました。白い扉に、真っすぐ向かい合いました。
「あ、あの、どうして、人魚姫と来たかって言うとさ、銀波町には、人魚姫の伝説があって。あ、小冬は、その話、知ってるかな」
沈黙。
「レディ・アイデス・ブラック・ダリアっていう、なな名前の人魚姫なんだ。水の中にいる時は白いヒレを持ってて、で、それで、地上を歩く時には、黒い義足を、つつ、着けるんだ。歩くと、ことこと、音が鳴るんだけど、その義足の中、何が入ってると思う?」
沈黙。
「た、短剣だよ。オレ、あ、あれは、王子の心臓を刺すはずだった、短剣だって、勝手に思ってんだ。あ、ちなみに、レディ・アイデス・ブラック・ダリアはさ、あの有名な人魚姫の人魚姫じゃないんだって。あれは妹で、アイデスはお姉さんなんだ。あ、レディ・アイデス・ブラック・ダリアは、アイデスって呼んで欲しいんだって。長いもんな、名前」
沈黙。
「……話がまとまらなくて、ごめん。オレ、人としゃべると思うと、それだけでダメで、だからその……」
僕は深呼吸しました。 何度も、何度も。それから、ひと際ゆっくりと、話し始めました。
「き、君は、夏乃に、夜道で怪物に追いかけられたって、話しただろう。それで、怖くて外に出られなくなったって。オレ、夏乃からそれ聞いて、人魚姫のアイデスと一緒に、そいつを退治しようって思ったんだ。そいつさえ倒して、そのことを夏乃に伝えたら、君にも話が伝わって、君は、もう一度学校に来られるようになるって思い込んでた。……ごめん。その時は、正直、夏乃にいい格好したいって気持ちばっかりで、何も、よく考えてなかったんだ。……本当にごめんな」
沈黙。
僕は母に借りてわざわざつけてきた腕時計をちらっと見ました。大したことを話していないのに、もう四〇分も経っていました。
「……あ、あの、まだぜんぜん何も話せてないんだけど、まだ、は、話したいこともたくさんあるから、今日はこのくらいにしとくな。また、近いうちに来るよ」
僕はカンペをくしゃくしゃにして、ポケットに突っ込みました。踵を返し、階段を降りようとしましたが、途中で振り返りました。
「……い、一年生の時、かばってくれてありがとう。あの時は言えなかったけど、『悪いことしてない』って言ってもらえて、……すごく嬉しかった」
心の奥深い部分から、急にこみ上げてきた言葉でした。しかし実際に自分の声を聞いてみると、僕はそれこそを最も小冬に伝えたかったのだと気が付きました。
「今回のことだってそうだよ」
そうだ。その通りだ。僕は一言ひとことを、噛み締めるように言いました。
「小冬、君だって何も悪くないんだよ」
2
その日から、僕は二日と間を開けずに、小冬の家に通い出しました。今思うと訪問の頻度が高すぎる気もするのですが、小冬の父はいつも歓迎してくれるので、甘えつくしました。
話す内容は相変わらず支離滅裂でした。念のため、毎夜カンペを作ってはいましたが、結局使いませんでした。
アイデスとした話。海の魔女と卵のこと。
あんまりファンタジーな話ばかり続くのもどうかと思い、うっかり夏乃のことが好きだと教えてしまいました。
そして星真珠のこと。何を見たかについては、話しませんでした。下手なことを言って、小冬にあの時のことを思い出してほしくなかったのです。
ただ、『怪物』を退治したことは話しました。その時にどんな立ち向かい方をしたかは、多少、誇張したかもしれません。
そして、小学校に入ったばかりの時、かばってくれたことが、とても嬉しかったことを、もう一度しっかり伝えました。その時には、冷たい態度を取って申し訳なかったということ。
そしてどの話をした後でも、帰る前に、必ず伝える言葉がありました。
「小冬、君は何も悪くない」
3
少しずつ半袖で過ごすのが厳しくなってきていました。昼間はまだいいのですが、夕方は冷たい海風が吹くようになってきていました。
小冬の家に通うようになった僕は忙しく、アイデスに会いに行く機会がなかなかありませんでした。しかしアイデスは相変わらず川辺の船に乗って、まだそこにいるようでした。
その日の僕は、アイデスが案外気さくな点と、一方で時折、あっさり人をモノのように使うような点について話しておりました。『怪物』を吊るエサにされたことを、怒っていないと言いつつ、なんだかんだで、まだ根に持っていたのでしょう。
話し終えると、僕はいつものように、白い扉に向かって「また来るね」と言いました。そして、
「小冬、君は何も悪くない」
いつも通りの沈黙の返事を聞いてから、僕は踵を返しました。
「…………わたしがわるかったのよ」
僕は立ち止りました。振り向くと、白い扉が相変わらず立ちふさがっています。しかし、
「あの日、つかれちゃってたの。ほんとうに、つかれてただけなの。あー、つかれたなあって思っただけなの」
「……そうなんだ」
僕は静かに白い扉に歩み寄ると、耳を押し当てました。
「パパのことを考えちゃうこととか、友達のことを考えちゃうこととか、テストでいい点をとろうとか。ただ、自分がいい子だって思われたくて、勝手にやってるくせにね。あの日、初めて、あぁ、つかれたぁ、って、思っちゃったの」
僕は目を閉じました。星真珠で何度も彼女に重なり合ったせいか、今星真珠は手元にないのに、その日の光景が、彼女の気持ちが、心に思い浮かびました。
彼女は塾を終えて、いつも通りに九時に外へでました。歩きなれた道を、いつも通りに歩いていました。
けれど、その日、ふと、満月の浮かぶ海の広さに気づいたのです。そのとたんに、なぜか、涙が目ににじみました。
家に帰れば、大好きな父が温かい料理と共に出迎えてくれるでしょう。
ぐっすり眠って、明日になればまた学校に行きます。教室には優しい夏乃がいて「おはよう」と声を掛けてくれます。「宿題にわからないところがあった」と言って、自分を頼ってきてくれる他の生徒もいます。率先して”良いこと”をすれば先生は褒めてくれます。
小冬はそういう子だと、誰もが思っています。小冬自身も、そう思っていました。
真夜中の海の広さに、気づくまでは。
もう何度か通った場所なのに、初めて来たような心地になりました。「子供が夜に外にいるのはいけないことだ」という常識が頭にあるために、小冬はいつもここを速足で通り過ぎていたのです。
自分はここにいてはいけない。立ち止まってしまってはいけない。
分かっているのに、小冬は動けませんでした。夜の海は広いだけではなく、途方もなく美しくもあったのです。
こういう光景があると、誰も教えてくれませんでした。知りませんでした。知らないままに、一人でせかせかと昼を過ごしていたことを自覚した途端、小冬は、どっと疲れを覚えました。
小冬はしばらくその場にとどまっていました。海岸に降りてみたい、とも考えましたが、心配症の父の顔が脳裏に浮かぶのを止められず、諦めました。
けれど随分長い間、小冬はそこに立ち尽くしていました。
ぼろろろろっ。
背後をやかましい音が通り過ぎたので、小冬は我に返りました。
それまでも車道を何台かの車は通っていきました。 しかし、その車ほどけたたましいエンジン音は初めてでした。わざわざ大きな音が出るようにエンジンを改造する人たちがいることを、小冬は父から聞いて知っていました。
それ自体は悪いことではないけれど、夜中にそういう車を乗り回す人たちには、少し気をつけるように。父がそうも言っていたことを思い出し、小冬は腕時計を見ました。
九時半を少し過ぎたところでした。
「……」
僕は目を開けました。
最初に後ろを通り過ぎた車は、エンジン音が同じことから、恐らくあの二人のものでしょう。最初は小冬が道にいることを確認しただけで、通り過ぎて行ったに違いありません。その後、ふたりの間でどういうやりとりがあったかまでは定かではありませんが、もう一度見に行こうという話になったのでしょう。
わざわざユーターンして戻ってきたところで、異形に追われる小冬を発見し、そして……。
起きてしまった事の全貌が、ようやく見えたように思われました。しかし、だからと言って僕が小冬に伝えたいことは、何も変わりませんでした。
「でも、小冬は悪くないんだよ」
小冬が息を飲む音が聞こえました。
重たい沈黙のあと、かすれた声が言います。
「夜道にひとりでいたの」
「君は悪くない。どんな場所でも、子どもを襲う奴が、悪い」
「知らない人の車にのっちゃったの」
「君は悪くない。怖いものに追いかけられている時に手を差し伸べられたら、誰だってその手を取る」
「逃げられたの。最初に降りろっていわれた時に、逃げればよかったの。靴を脱げって言われても、言うことをきかなきゃよかったのに」
「君は悪くない。もっと悪いことをされていたかもしれないんだ」
すすり泣きが聞こえました。僕はじっと待ちました。そのうちに、鼻をかむ音が聞こえ、静けさが場に満ちました。
けれど、以前のような重たい沈黙とは、何かが違いました。以前の沈黙が、目の前の扉だけでなく、小冬の心のシャッターまでも閉まっている雰囲気がありました。
しかし今は、その一つは開いているように、僕には思えました。
「君が話してくれるまで、と思って、黙ってたんだけど」
僕はまだ少し迷っていましたが、思い切って続けました。
「君に酷いことをした二人組は、ほかの女の人にも酷いことをしてる。彼女は行方不明ということになってるけど、君と同じように、車で連れ去られたんだ。そのことを知っているのは、僕とアイデスと、……ホームレスの人だけ」
僕は少し考えてから、ランドセルを探って、あのポスターを取り出しました。そして、扉の下の方に差し込みました。
「ご両親はまだその人を探している」
「……けいさつは?」
「多分、ほとんど何も、知らないんじゃないかな。関係者が、みんな、黙っているから」
扉の向こうで、小冬がその紙を手にして、じっくり眺めているような気がしました。
「…………もしも、わたしが警察に話したら、警察は捜査する? わたしのことも捜査されて、この人も見つかる?」
僕は一瞬、胸が詰まりました。彼女は、本当に、なんと強い人でしょう。
「ああ……ああ、見つかると思うよ」
なんとか絞り出した言葉は、妙に上ずってしまいました。
しばらくして、小冬は言いました。
「すこし、考えさせて」
階段を降りていくと、小冬の父が立っておりました。それまで気づきませんでしたが、今までもこうして階上の話を聞いていたのかもしれません。
目が真っ赤になっておりました。
ありがとう。
そう呟くと、小冬の父は顔を覆いました。
4
僕は小冬の家を出ると、川辺へ向かって駆けだしました。
「アイデス!」
その時アイデスはヒレだけを水に浸し、川辺に寝そべってアイスを食べていました。
傍らに走り寄った僕は、アイスを手渡されたことも気づかないまま、夢中で先ほどの出来事を語りました。
小冬がはじめて答えてくれたこと。自分が伝えたいことを伝えられたこと。
怪物をナイフで刺し、退治したような、わかりやすい成果ではありません。それでも、誇らしく話さずにはいられませんでした。
「すごいね」
アイデスはあっさりと一言述べました。けれどそのたった一言に、本当の賞賛が詰まっていることが、僕にはわかりました。
僕は妙に照れ臭くなって、首の後ろを掻きながら言いました。
「……ま、まあ、まだ、ちょっとしゃべってくれただけだけど。扉越しだし」
「それだけでも大きな一歩だよ。十分すぎるくらいさ。この世界はおとぎ話じゃない。怪物を倒してハッピーエンドなんてありえないし、お姫様を救いだしてめでたしめでたしも無理がある。……アイスをお食べ。溶けるよ」
アイデスはもう自分の分を食べきってしまい、木の棒を口にくわえてぷらぷらさせておりました。
言われて、僕は慌ててアイスの袋を開けました。相変わらずの、水色、サイダー味です。ここに至るまで何度も食べているので、正直、飽きてきていました。それなのに。
しゃくり、一口齧ると、妙に美味しく感じました。
しかしアイデスの言う通り、現実は、おとぎ話とはまったき違いました。それからしばらくは、どれほども、僅かな進展すらなかったのです。
あの瞬間、小冬と言葉を、心を交わしたと思い込んでいた僕としては、遅々とした現実に対して、不満がなかったわけではありません。しかしだからといって、十二歳の子どもにはどうしようもありません。
僕はその後も小冬の家に行きましたが、どういうわけか小冬の父も小冬もいない日が多くなり、少しずつ足が遠のきました。
淡々と平凡な日々が過ぎました。
これまでの出来事を忘れ去らない為に、親友の秋次郎に、『魔女の卵』との対決だけは、武勇伝のように語ったりしておりました。多少の脚色と誇張を加えて。
夏乃には……一切話しませんでした。クラスでも人気の女子に話しかけるタイミングがない、というのが一番の理由ではありましたが、なんとなく、小冬の一番仲がいい相手に、今回のことを、第三者の僕から話すのは気が引けたのです。
小冬はそもそも、若者二人のことを、夏乃に話しておりません。その理由は、理解できる気がします。
化け物に追いかけまわされて逃げた、というほうが、恐怖の体験としてはわかりやすいものです。しかしあの若者二人について話そうとすると、恐ろしい存在であるのは明らかでありながら、実際にどう恐るべき相手なのかが、いまいち伝わりにくいのです。
同じ人間でしょう。何が怖いの? 人間同士なら、きちんと話せばわかってくれたんじゃない?
夏乃はそんなことを言わないとは思いますが、「言われてしまうのではないか」という不安の方が膨れ上がってしまう。小冬に同化し、同じ体験をしたからこそ、今の僕には、そういう気持ちも理解できました。
事態の硬直に対して抱いた不満が、「そういうものだ」と悟りの境地になる頃には、夏の終わりが近づいておりました。
夏が終わりかけの銀波町の早朝は海風が冷たいので、僕はその日、今年初めて薄手のコートを羽織って登校することにしました。
母がコートを出してくれるのを待っている間、なんとなしに、流れっぱなしの朝のニュース番組を眺めておりました。
そこに見覚えのある家が映りました。
白い豪邸。
普段はニュースなど見向きもしないのに、僕はそのテロップを隅々まで読みました。
『誘拐と誘拐未遂の疑いで、男二人を逮捕』
5
ニュースは短いものでした。終わるやいなや、僕はアイデスのもとへ駆けだしていました。
アイデスは川辺に、たくさんの荷物を広げているところでした。旅の前支度のようです。僕に気づくと手を振ってくれましたが、僕はそれに答える余裕もなく、息を弾ませたまま直球で言いました。
「あ、あいつら、逮捕されたみたい」
「知ってる。テレビはないけど、ラジオを持ってるから」
僕は少し考え込み、思い切って、気になっていたことを尋ねました。
「……あいつらには『魔女の卵』はくっついてなかったの」
「なかったよ」
僕の言わんとしていることを察したのか、アイデスは続けました。
「前もちょっと言ったけど、『魔女の卵』に寄生されなくたって、『怪物』みたいなのはもとからたくさんいるんだよ。人じゃないイキモノにも、人の中にもね。今回のあいつらは、人だから、人の法で裁かれる。それが一番いいんだよ」
「……で、でもさ、すぐに、出てきちゃうんじゃない?」
秋次郎から聞きかじった知識でした。誘拐や傷害といった、殺人”以下”とされる罪の場合、十年以上の罰になることの方が少ないと聞いて、僕は驚いたものです。
「そうかもな」
アイデスは缶詰パックを袋に詰めながら頷きました。しかしすぐに顔を上げ、にやっと笑いました。相変わらず魅力的な笑みですが、ここまでアイデスと付き合ってきた僕はもう、さすがに気づいています。そこにあどけない毒が含まれていることに。
「まあ、大丈夫だよ。彼らはもう二度と、人を傷つけられない」
アイデスが前髪をかき上げました。綺麗な額があらわになりました。汚れのない白い肌でしたが、右上のほうに、微かに赤いイナヅマが走っていました。
それは、すでに概ね治りかけてはおりましたが、確かに傷跡でした。
「正真正銘、本物の『怪物』に出会ったからね」
それはどういうことなのか。僕は何度かアイデスに問いましたが、彼女は答えてくれませんでした。
荷造りを手伝ってくれたら教えてあげるかも、と言うので一生懸命手伝いました。
しかし最後に彼女がくれたのは、やっぱり、サイダー味のアイスバーでした。
6
その夜、僕は久しぶりに、星真珠を枕元に置きました。
前回の小冬のビジョンを見てから距離を置いていたのですが、これが最後、という気持ちで添えると、僕は目を閉じました。
”僕”は口笛を吹いています。白くて太いハンドルを握り、機嫌よく車を運転しています。
ミラー越しに後部座席を見ると、友達が気にいりの酒を呷りながら、隣に座っている女にちょっかいを出しています。本当に「ちょっかい」という感じです。女が綺麗な髪をしているので、それを指先で払っては、わざとらしく軽く頭をはたいたりしています。
”僕”はそれが面白くて、げらげら笑います。すると友達はさらに興奮して、女の腕を突いたり抓ったりと、新しい悪戯を始めるのです。
女は俯いて、ジッとしています。身体を竦めて、できるだけ縮こまっています。今までの女はみんなそうです。本当に単純な生き物だなと思います。
怖いなら逃げればいいし、やめてほしいならやめてと言えばいいのです。でもそういうことを実行した女は、これまで一人もおりません。
ということは、彼女たちの身に起きることと言うのは、すべて自分のせいです。自己責任なのです。
”僕”の家につきました。僕が女の腕を掴むと、一瞬その肌が震えましたが、友達が後ろから「おうおう」と声を上げると止まりました。
そして大人しくついてきます。こういうのもいけません。自分の意思はしっかり持つべきです。でもついてくるということを受け入れたということだから、この先何があっても文句は言えない立場に、この女はなったわけです。「ただいま」
”僕”たちはまっすぐ階段に向かいます。”僕”の部屋に入ります。女がどうしてか立ち止まったので、友達がその背を蹴りました。
7
背中を蹴られた勢いのまま、女性は部屋に倒れ込みました。その拍子に、頭を強く床に打ちました。ゴトン、という鈍い音が響きました。
酒瓶と煙草の男は甲高い声で笑いました。女性は動きません。うつぶせになって、震えています。打った頭から滲んだ血が、毛足の長いカーペットを汚しました。
それに気づいた煙草の男が、女性の肩のあたりをおもいっきり蹴りました。丸っこい目はそのままなのに、黒目が小さく、恐ろしい形相になっております。酒瓶の男は最初こそ囃していましたが、煙草の男に睨まれると静かになりました。
にがしてください。
女性が小さな声で言いました。
それを聞いた煙草の男はさらに猛り狂いました。
汚しやがったくせによお。汚しやがったくせによオ。
口から泡を飛ばして同じ言葉を繰り返します。
酒瓶の男が、女性の胸を蹴って、仰向けにしました。
赤い目が、二人をまっすぐ見上げました。にがしてくれないのか。
「じゃあ仕方ないな」
8
女性は、すっくと立ちあがりました。ざっくり切れた頭から血は流れていますが、痛みも何も感じていないように、微笑んでいます。
男たちが後ずさりますが、
「動くな」
女性が……アイデスが言うと、ぴたっと止まりました。
アイデスが男たちの顔を至近距離で眺めます。男たちの瞳孔が収縮し、額に汗が滲むのを見て、心底驚いたように目を丸くしました。
「まさか、怖いのか? 怖い、という気持ちが理解できるのか? こんな『怪物』じみたことを繰り返している癖に?」
アイデスの嘲りに、煙草の男の目がぎらりと輝きました。それは見間違いようもなく、怒りでした。しかしアイデスはそれさえ、鼻で笑うだけです。
「そうそう。少しはそういう抵抗を見せておくれ。手本を見せておくれ。君たち自身が相手にあれだけ”抵抗”だとか”自己責任”を求めるのに、自分が少しもできないなんて、そんなことはないだろう?」
芝居がかった仕草で、アイデスは男たちの周囲を一周しました。
「私をここまで連れてきたのも、傷つけたのも、君たちだ。逃がしてくれと言った時に、逃がさなかったのも、君たちだ」
アイデスは呟いて、義足から短剣を取り出しました。
男たちがぎょっと目を見開きます。
「これは君たちの”自己責任”だよ」
そう言うとアイデスは、胸に短剣を突き刺しました。自分自身の胸にです。
ぱっと世界が真っ赤に染まります。ホームレスの男を刺した時と似ていました。しかし違うのは、いっかな赤い世界が元に戻らないことです。
ずるっ。
二人の男は、唯一動く目を使って、音のほうを見ようとします。しかし、真後ろから近づいてくるそれを、見ることはできません。
ずるるっ。
アイデスが高らかに笑いました。真っ赤な世界がさらに紅く。その匂いと気配に誘われたように、
ずるるるるるっ。
それは一気に、男たちの背後へ、
「来てくれると思ったよ、愛しい人。海の魔女」
9
アイデスはぱたんと扉を閉めると、階段を降りていきます。
玄関まで来たところで、ふいに後ろを振り向きました。
「あなたが小冬さんを逃がしてあげたんですね」
リビングへ続く扉から、やせ細った女性が、顔の半分だけを覗かせています。疲れ果てた風貌。光の無い目。乾いた肌。
「それは、小冬さんが子どもだったからですか? それとも、息子を、子どもを害すような『怪物』にはしたくなかったという、母親の愛ゆえですか?」
女性は答えません。ただ、じっとアイデスを見ています。
アイデスは諦めたように肩を竦めました。
「おじゃましました」
10
アイデスは海へきていました。胸元に空いた穴を、指でほじっています。
「お気に入りだったんだが」
「普通に呼んでくれればよかったのに」
拗ねた少女の声がしました。いつの間にか、アイデスの隣には、赤い髪の少女がおりました。アイデスが歩くのにあわせて進みますが、その足は人のモノではありません。
大きな吸盤のある触手が器用にうねらせて、少女はアイデスの隣を進みます。
「あなたの血のニオイは、心臓に悪いから、あんまりああいうことはしないで」
「三個もあるんだろう。一個くらい止まったところで、どうということもあるまい」
「何度も言うけど、わたし、タコじゃないの。心臓は百以上あるけど、感じる心は一つなんだから、あんまり意地悪しないで」
いつの間にか、少女は大人の女性に姿が変わっています。アイデスと並んでも遜色のない美貌です。青い目は、宝石などに例えるべき輝きでしたが、どうしてかサイダーのアイスを思い出させました。
「頭の傷、まだ治らないの? 昔は一瞬で治ったのに」
「人魚も寄る年波には勝てんさ。まあ、明日には傷跡だけになっていると思うよ」
「……海に帰ってきてくれたら、すぐに治してあげるのに。ちょっと浸かってくれるだけでも、いいの」
アイデスは歩き続けます。女性もついていきます。しかし、やがて海が途切れる場所に辿り着きました。
「……やっぱり、一緒には居られないの? 人魚姫」
「……私たちは一度既に間違っただろう。海の魔女」
アイデスの足元に海波が寄りますが、アイデスはすっと一歩下がり、それから離れました。それは波の中にいる海の魔女からも離れたということです。
「あなたは私への愛ゆえに、妹に甘くなった。あなたは海そのもので世界に平等でなければならなかったのに。私を愛していたから、妹に足をやった。そして妹は死んだ」
……あの母親のことをとやかく言えないな。アイデスは苦々しく呟き、目を閉じました。再び開くと、まっすぐ海の魔女を見つめます。
「私はあなたを許すべきではないし、愛すべきでもない」
「でも……わたしは愛してる」
「私もだよ」
海の魔女は……もう姿がどんなものかわかりません。全身が赤い霧に覆われて、何かがその奥でむせび泣くように震えていることだけがわかりました。
アイデスは手を伸ばして、闇に触れるか触れないかの位置で、指を微かに動かしました。
掴みたいのに、掴まない。撫でてやりたいのに、撫でない。そんな仕草でした。
「私にできることは、あなたが振りまく寂しさが世界を覆いつくさないうちに、摘み取ってやることだけだ。あなただけを追って、生きることだけだ。さようなら」
アイデスは踵を返しました。
「さようなら。また会いましょう、海の魔女」
波が砂を叩く、ひと際大きな音が、一度だけ鳴りました。
11
目を覚ました僕は、しばらくぼんやりしていました。こんなに長く眠り、長い夢を見たのは生まれて初めての気分でした。
ふと枕元に目をやりました。砕けた星真珠の欠片が、ぱらぱらと床に落ちていくところでした。
使いすぎたためか、役目を終えたからかかはわかりません。
僕はそれを丁寧に集め、それから……じっとそれを見つめたまま、母が部屋に呼びに来るまで、少しも動けませんでした。
僕はその日の夕方、砕けた星真珠の欠片を持って、川辺に行きました。アイデスはいませんでした。 最後に星真珠が見せた夢から考えると、またどこかの陸の町へ、さみしさを産みに行った魔女を追って、アイデスもどこかの町へ寄るのでしょう。お互いに想い合いながら。追いかけ、追われ、また追いながら。けれど決して、交わらないまま。
小冬の事件について、星真珠を失い、アイデスとも別れた後の僕は、ニュースやワイドショーで情報を得るしかありませんでした。虚像と誇張の織り交ざった情報から真実だけを選別するのは、かなり骨が折れました。
ワイドショーによると、誘拐未遂にあった被害者の少女が、勇気をもって父親と一緒に警察へ何度も相談しにいったことで、捜査が一気に進んだという話です。
失踪中の女性の誘拐についても二人は自供しました。そして……二人の供述通りの場所から、彼女の遺体が発見されました。
僕は事件の進展をしばらくは熱心に追っておりました。けれど、段々と自ら離れていきました。その話自体を聞くのが苦痛になったためです。
結局、小冬は教室に戻ってきませんでした。六年生が終わるまで、一度もクラスに出席しませんでした。
秋次郎の話では、極まれに保健室登校をしたり、特別授業を受けているとのことでしたが、それを聞いて逆に、僕は複雑な心地になりました。
自分のしたことには、本当に意味があったのか? 正しいことができたのか?
いくら現実がおとぎ話とは違うとはいえ、僕は心のどこかで、せめて小冬が再び教室に戻って、夏乃ともう一度笑い合うくらいのハッピーエンドがあるのではないかと、未練がましく考えていたのです。
そういうことを考えてしまう自分にも嫌気がさして、次第に事件から遠ざかっていったのです。
そのうちに、僕は小学校を卒業。中学受験をして、自由な校風の中学校に入学しました。なぜか秋次郎も同じ中学に入りました。彼の学力ならもっと上の中学校にも行けたはずなのに。理由を尋ねても「とにかくこの学校に行きたいから」の一点張りでした。
夏乃と小冬は、銀波小学校からエスカレーター式の銀波中学校に入ったようです。
彼女たちのその後は、それからずっと、知りませんでした。
12
それなのになぜ、こうして三年が経った今、自分の言葉であの日々を綴ろうと思い至ったのかと言えば。
つい三日前のことでした。
僕は高校受験に向けて、参考書を買いに本屋へ行くところでした。
そこへ、正面から、銀波中学校のセーラー服を着た二人が、楽し気に話をしながら歩いてきます。明るく澄んだ笑い声が、青い空に響きました。
その一人は、見間違いようもなく、夏乃でした。淡い憧れを抱き、見つめ続けた人ですから、すぐにわかりました。美しい黒髪は相変わらずです。優しい声は少し大人びておりました。
僕は、本当は、夏乃と同じ中学校に行きたいと願っていました。難しいことではありません。銀波小学校と中学校はエスカレーター式に入れるのですから、ほかの中学校を目指す方が面倒なくらいです。
しかし僕は深く悩み、泣いて泣いて、自らその”面倒”を選んだのです。
なぜか。
銀波中学校は、男子はブレザー、女子はセーラー服と制服が決まっていたからです。
僕にはどうしても、その規則を受け入れることができませんでした。
母とお店へ試着へも行きました。けれど、いくら努力しても着ることができませんでした。
セーラー服を手に、試着室から無言で出てきた僕を、母は理解してくれましたが、店員の怪訝そうな顔は今も覚えています。その顔を見た途端、僕は一瞬顔を俯け、ポケットの中の小瓶に気づくと、すぐに顔を上げました。小瓶の中には、あの日砕けた星真珠の欠片が入っております。
自分の意思で、自分の気持ちを尊重し、私服での登校が認められている中学校を選んだことを、僕は今も誇りに思っています。
だから、今更、銀波中学校に未練はありません。ありませんが……セーラー服を着た夏乃は、やはり美しく、僕を惹きつけました。
同じ小学校で、同じクラスだった頃から、積極的に声を掛けたことはほとんどありませんでした。告白などもっての外。自分の中の葛藤と天秤にかけたら、諦めてしまうような、もろく幼い恋心。
しかし、あの十二歳の夏、僕はその恋に突き動かされ、彼女のヒーローになりたいと願ったのです。三年という月日を経た今、それ自体は、決して悪いことではなかったと思えるようになりました。
彼女のヒーローになりたいと願ったからこそ、臆病だったちっぽけな少女は、自ら人魚姫に会いに行きました。予想とは違った形でしたが、非日常的な『怪物』に、自ら立ち向かう経験もできました。自分の愚かさと幼さも知りました。身近な世界にこそ、信じがたい悪意が存在することも学びました。
そういった多くの記憶の中で、今も僕にとって最も尊い事実は、その悪意に押しつぶされず、自分の為にも、誰かの為にも立ちあがろうとする、強い心を持つ人が存在したことです。
ふと、夏乃の隣の子が、僕を見た気がしました。僕はそこでジロジロと彼女たちを見ている自分を自覚して、あわてて平静を装い、足を速めました。
夏乃は隣の子に何やら夢中で話していて、僕に気づいておりません。僕はほっとしましたが、やはり多少、寂しくもありました。
そのような曖昧な心地で通り過ぎようとした時、ふと、夏乃の隣の女の子が軽く会釈をしたように見えました。
僕はそこでようやく、隣の彼女をまともに見つめました。
思わず、あ、と心で叫びました。
僕も二人も足は止めませんでしたので、確かなことはわかりません。すれ違う瞬間というのは、まさしく刹那のことでしたから。
しかし僕は確かに、その少女の左目の下に、小さなほくろを見たと思うのです。
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