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「うわ……」
理央はブルーのライトで海を模した店内の中心にある美しい水槽に思わず声を漏らした。
この店に向かう道すがら自己紹介をしあった。麗しい彼の名前は『千聖』というらしい。
クラブミュージックが低音で流れているものの、落ち着いた大人向けの店らしく、低く落ち着いた音。
まるで海の底に誘われたような雰囲気。
店の高級感に思わずそんなに持ち合わせがないということをちいさく理央が告げると、千聖は店の雰囲気ほどそんなに高い値段のお店じゃないし、僕が誘ったんだから一杯くらいごちそうさせて? とふんわり優しく笑った。
その笑顔を押し退けて帰るなんて出来ないが、奢られるのも図々しいんじゃないかと思っていると『新歓は先輩が奢るものだよ』 と言われた。そうなのか。 サークルの説明をしたいと千聖は言ってたし、これも新歓の一部なのか。
そう思うと少しだけ気が楽になって千聖にエスコートされるまま店内を進んだ。
「千聖さん、お連れ様がいるなんて珍しい……っていうか初めてですね」
店員がにっこり笑って話し掛けてきた。こちらもまた随分綺麗な人であった。耳に光る深い青のピアスが自分の耳にあるピアスより随分大人っぽく、色っぽく感じられて理央はどきりとした。
「うん。サークルの新歓に来た一年生。静かなところで勧誘したくてここに連れてきたんだ。ゆっくりできそうなところ空いてる?」
こんな素敵な店で慣れた様子を見せる千聖は三年生だと言っていたが、なんだか理央より随分年上に見える。
「あ、それなら今日は奥のソファが空いてますよ」
店員は軽やかに言うと、千聖と理央を奥のソファ席に案内した。
手慣れた様子で飲み物の注文まで済ませると店員さんは静かに去って行った。
優雅なのに無駄のない店員さんの身のこなしに思わず目を奪われると
「ああいう人が好み?」
と聞かれた。少し拗ねているような声色に聞こえるのはどうしてだろうか。
「いえ……っなんか……すごくお洒落な店で……こういうところは店員さんもなんか……ちょっと違うんだなと思ってびっくりしただけです」
理央が言うと
「よかった。あの子は綺麗な感じで僕とは随分タイプが違うから、理央の好みがあの雰囲気ならどうしようと思っちゃった」
と、 とても綺麗な顔で笑った。言われた言葉はどういう意味なんだろうか? 確かにタイプは違うけれど千聖だってとても綺麗な人だ。
少し広めのソファなのに、肩とか、太ももとか、ぴったりと合わさるほどに近くに座った千聖。少し甘く耳元で囁かれた声に、触れあっているところがじんわりと熱くなった気がして落ち着かない。
千聖からほんのりと香るコロンの香りにくらくらと目眩がする。
「理央はちゃんとテニスがやりたいって言ってたけど、高校のときはテニス部だったの?」
千聖の柔らかくて深い声はフロアに流れる低音のクラブミュージックと溶けて耳がじわりと滲んでしまいそうだ。
鼻も耳も目も、触れたところもとろんと溶けてしまいそう。
「はい。テニス部でした。でもバイトもしているし、大学の部活でやる腕前でもないので、一生懸命テニスの活動しているサークルでやれたらいいな、と思って」
そこまで言うとオーダーした飲み物が運ばれてきた。
理央の前に置かれたのは綺麗な青いドリンク。
「お酒飲みたかったらごめんね。酔って判断間違ったとか話したこと忘れちゃったっていうことになったりしないようにノンアルコールにしたよ。でも、ここノンアルのカクテルもすっごく美味しいから。飲んでみて?」
綺麗な青いドリンクに飾られた色鮮やかなフルーツが綺麗な飲み物。
恐る恐る口を付けてみると
「……あ……おいしい……」
南国を感じさせる甘い香りの奥にフルーツの味がした。香りほど甘くないその飲み物をひと口飲んで思わず声を漏らすと千聖は嬉しそうに笑った。
「気に入ってもらえてよかった」
そう言ってから
「そうそう、サークルの話ちゃんとしなきゃね。うちのサークルは週に3回、多いときは4回大学や大きな公園、スポーツクラブにあるテニスコートを借りて練習しているよ。夏休みとゴールデンウィークと春休みには合宿があって、飲んだりもするけど合宿後の大会に向けて結構ハードな練習するよ。だから高校まで部活でしっかりテニスやってた経験者も満足してもらえると思ってる」
説明してくれる千聖の声の心地よさにくらくらしていて、ノンアルコールなはずの綺麗な飲み物に酔ったみたいだった。
ぽやんとした理央の様子に千聖はくすり、と笑って
「実際練習見てもらうのが、一番いいと思うんだけど明日の土曜日練習見に来ない?」
と理央を誘った。千聖の言葉に理央は少し首を傾けた。
「あれ? 新入生の練習見学は明後日の日曜日に市民公園のコートでって言われたんですけど」
「うん。新入生に公開する練習はそれなんだけど、大会も近いから明日は三年生だけ練習でそれは下級生には非公開なんだ。だから一年は理央だけだからゆっくり見学出来るよ。あ、理央も一緒に練習するのも楽しそうだね」
千聖はそう言って理央の髪を少しだけつまんで、するりと指を絡めた。痛くない程度にからかうように軽く引かれた理央がびくりと背を震わせると、ふ、と笑ってごめんねって言ったのに、千聖は理央の髪から指を離さないからぴったりとくっついているところが火傷してしまうんじゃないかと思うほどに熱い。
「あの……っ一年生俺だけって……ほ……他の三年生たちはっ……」
「あぁ、僕が良くても他の三年がなんて言うかって? 大丈夫。 僕そういうこと今までしたことないし、一回くらい自分が口説きたいと思ったコを特別扱いしたって許してくれると思うよ。明日、来てくれるよね? 理央に来て欲しいな」
千聖がそんなことを言ったので理央は一気に混乱した。どういうこと? 何かすごいことを言われたような気がする。
混乱して目を白黒させる理央のことをくすくす笑って指に絡めた理央の髪を悪戯に引く。
「すっごい綺麗な色だよね。理央の髪……理央の髪はここのテーマカラーより明るい青だけど、あんまり綺麗だからここに連れてきたくなっちゃった。誰にも教えたことのない 僕のお気に入りの場所なんだ」
それから、 理央の耳に触れるほど唇を寄せて。
「ほんと、すっごい綺麗……こんなに明るいのに、つやつやしてる……いい匂いだし……」
「あ…… 兄が美容師でっ……」
思わず上擦ってしまった声で答えると
「そう。髪を傷ませないでこんな綺麗な色に染めるなんて、お兄さんすごいね」
うっとりしているような声が耳の奥に流し込まれる。
思わずぐいっと飲んだ飲み物はノンアルコールなのに、顔が熱くなった。
「トリートメントとか……っいっぱいしてくれるんで……っ」
「うん、ほんとずっと触ってたい……きもちい……」
千聖の指先が時おり髪だけでなく、頭にも軽く触れてゆく。
「あああ……あのっ千聖さんも俺と同じ理工学部ですよねっ」
どんどん熱くなる頬を誤魔化したくて、理央は大きな声を出すと、一瞬千聖は眼鏡の奥の綺麗な瞳をまるくして、それからクスクス笑った。
「うん。そうだよ」
ただ返答しているだけなのに千聖の声は蜂蜜を溶かした飲み物みたいに甘い声。
「け……研究室入るとっ……忙しくなるって聞いたんですけど……っ」
「あー、そうだね。僕も研究室始まって少し忙しくはなるよね。卒論と院試の準備始まるまでは先輩達見ててもサークル活動くらい大丈夫そうだよ」
「ち……千聖さんはどこの研究室か聞いても大丈夫ですかっ?」
甘ったるい雰囲気をどうしたらいいか分からなくて理央は質問を重ねる。
「僕は上原研究室だよ」
「え?!う……上原研究室?!」
千聖の返答に理央の声は思わず裏返った。
「上原研究室に入りたくてこの大学入ったんですけどっ……すごく入るの難しいって……っ」
「あぁ、エンジン工学の第一人者だもんね。上原教授」
理央の様子を見て千聖は面白そうに笑った。
「毎年入りたい人がすごい多いから、かなりレベルの高い論文出さないと通らないって……」
「そんなことないよ。基礎を抑えた論文出せば大丈夫だよ」
そうは言っても、上原研究室は論文に加えて成績もかなり優秀でないと取らないらしい。
「一年生からどの授業で勉強すればいいか、お勧めのものってあったりしますか?」
思わず理央が食いつくと
「今シラバス持ってる?」
と、聞かれ理央は持っていたリュックの中からシラバスを取り出すと、千聖はその長い指と綺麗な声で親切にお勧めの授業を説明して教えてくれたのであった。
千聖の説明を交えた各講義の解説や感想は面白くあっという間に時間は過ぎていったのであった。
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