第1章

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第1章

 祖父の生前、残念ながらオレは、その風変わりな木造家屋を訪ねる機会はなかった。なぜなら建物が完成すると祖父は、毎晩のように新築家屋に通い出し朝方に帰宅するというあらたな生活習慣をはじめたばかりか、家族でさえその風変わりな木造家屋へ近づくことを許さなかったからだ。  オレが中学校に入学すると、すぐに祖父は肺癌のため亡くなった。数年後、今度はまだ50代だった母が子宮癌に侵されてしまった。母が亡くなる数日前、消灯後のスタンドライトだけが(とも)清冽(せいれつ)な個室の病室で、癌の痛みと抗がん剤の副作用にひどく苦しみながら、血圧が下がりはじめ黄疸(おうたん)のような血色の悪い顔色の母は、最後のちからをふり絞るようにして祖父の秘密とともに、祖父は木偶だったと伝えたのだ。  ──ワタシのいうことは、すぐには信じられないでしょう、それならばオジイサンが建築した赫い三角屋根の家で暮らしてみるといい、きっと納得できるはずであるから  苦しそうに息を切らせ、途切れとぎれに……  そのときのオレは、まだ木偶という言葉をよく理解していなかったが、後日、遺言に等しい母の言葉を正しく理解すべく辞書で調べあげた。そして、木偶=デクノボウという認識を強くした。  やがて祖母も亡くなり、親族のなかで敬遠されていたあの赫い三角屋根の木造家屋とその敷地を、オレはみずから望んで代襲(だいしゅう)相続した。祖父の長男の叔父(母の弟)は、そんなオレを変わり者だと嘲笑(あざわら)った。  ──あんな風変わりな建物を買う人間はいないだろう、取り壊して土地だけでも売却すれば、ある程度の金になるかもしれないが  その後、もともと厭世的(えんせいてき)であったオレはシーとともに、大げさにいうと資本主義経済社会との決別のため、この赫い鋭角な三角屋根の木造家屋で隠遁(いんとん)生活をはじめる決意をした。それはまた、亡き母の最後の言葉が、心奥(しんおう)に深く刻まれていたからでもあった。
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