大切な人のために…

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大切な人のために…

その日は突然訪れた。 勇気が養子に出されて2年間、ほとんど連絡の無かった元夫の父からの電話。 『勇気に何かあったの…?』 そんな言葉が頭の中を過ぎり、施設の事務所の中だったが、慌てた由香は思わず携帯電話の通話を押してしまった。 「もしもし…?」 そう伝えると、無言だった。 いや、すすり泣く声が聞こえた。 由香は、強ばる顔を隠せず、事務所の人達の怪訝な顔を気にすることも出来ず、無言で返事を待った。 そして… 「勇気が…、勇気が…、父親を刺してしまった…」 その言葉に由香は立っていられなくなり、携帯を落とし、崩れるように座り込んでしまった。 事務所にいた篤史は、その由香のただならぬ雰囲気に、携帯電話を拾い上げ、相手が誰かも分からないまま会話をし始めた。 篤史が電話対応している間の事務所では、由香が心配でそばに寄り添う事務員、そして、少し離れた所から心配そうに見守る従業員達が篤史の電話が終わるのを静かに待っていた。 電話を切った篤史は、周りを見渡し、 「お騒がせしました、大丈夫ですので通常通りの仕事に戻ってください」 「あと、由香さんは早退しますので、そのフォローもよろしくお願いします」 と、頭を下げた。 そんな篤史を見て、社員たちは頷き持ち場へと戻った。 皆が通常の仕事に戻ったのを確認した後、篤史は、座り込んでいる由香の前にしゃがみこみ、 「立てますか?僕の部屋へ行きましょう」 そう言って、由香の肩を抱き立たせて、篤史の施設長室へと向かった。 部屋に着いても、由香は何も話さず下を向いたままだった。 「勇気くん…、大切な人が父親から傷つけられそうだったのを助けたみたいだよ」 そう、篤史が切り出すと、由香は涙を流しながら篤史を見つめた。 「起きてしまった事は変えられない…、でも、今は勇気くんに何がしてあげられるか考えて…」 そう篤史が言うと、その言葉を遮るように、 「施設長…」 そう由香が切り出し、 「プロポーズ、それからお付き合いも、無かった事にしてください」 そう伝えた。 突然の言葉に、篤史が、 「えっ?」 と言葉に詰まると、由香は泣きながら、 「勇気の笑顔を見ることが出来たら、プロポーズお受けしようと思っていたけど、勇気が辛いとき、そばにも居てあげられない情けない母親が、幸せになりたいなんて、そんなの許されない…」 と答え、下を向いた。 篤史は黙ったままだった。 『プロポーズ…、返事がもらえてなかったのは、子供の事を思ってだったのか…』 そう心の中で思い、今自分が出来る最大のことを考えていた。
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