そして、大切な人のために…

1/1
前へ
/20ページ
次へ

そして、大切な人のために…

「由香さん…」 「この話、あなたの恋人としてでなく、施設長として任せてもらえませんか?」 と、由香に問いかけた。 由香は、首を横に振った。 「これ以上、迷惑かけられません」 そう答えると、篤史は、真剣な眼差しで、 「勇気くんを守るためです」 そう伝えた。 普段の穏やかな表情と全く違う、初めて見る篤史の強い眼差しに、由香は断れなくなった。 言葉が出てこなくなった由香を見て、 「由香さん、あとは任せて、今日はこのまま寮に帰って下さい」 と言いながら、由香を安心させたい篤史は、優しく肩を叩き微笑んだ。 由香は、 「…分かりました。」 そう言って頭を下げ、部屋を後にした。 篤史は、由香に連絡をしてきた元夫の両親から、由香の元夫の暴力の事や、息子の勇気が、養子先へも祖父母の元へも戻らないと、そして誰にも会わないと、頑なになっていることを聞いた。 篤史は、実母の代理として管轄の市の職員にも話を聞き、何が自分にできるか考えた。 その夜、篤史は、各部署の班長を呼び出した。 「皆さんに相談があります」 そう、篤史は切り出した。 そして、由香に起きている出来事の経緯を説明した。 由香は、誰に対してもいつも笑顔で優しく一生懸命だった。 そんな彼女の夫の暴力という暗い過去、手放した息子への思いに、皆心を痛めた。 篤史は、 「由香さんのためでもありますが、何よりも勇気くんを見守りたいのですが、協力お願いしても良いでしょうか?」 そんな篤史の問いかけを、皆が快く受け入れた。 そんな従業員達を見回し、 「勇気くんに、ここに住込みで働いてもらうかと…」 と、提案をした。 「ここにはまだ使ってない寮の部室がありますし、母親の由香さんと対面するのは良くないようなので、由香さんには、勇気くんがこちらで働いている間、由香さんが生活している寮がある給食管理棟で、給食関係の仕事をしてもらえば、由香さんは会わずに見守ることが出来るかと思ったんですが…、どうでしょうか?」 と、皆の顔を見渡しながら付け加えると、それぞれが隣の人を見やり頷いた。 篤史は、皆の反応を見て、 「では、そのように出来るか確認してみますので、もし決まりましたら、その時はよろしくお願いします」 そう言いながら頭を下げ、急いで警察へ連絡をした。 篤史が、実母の由香の思い、従業員達の勇気を助けたい思いを、市の職員や警察に伝えたことにより、施設で勇気を引き受ける形が取れた。 市の職員からの提案という形だったからか、勇気自身も施設での住み込みをすぐに受け入れた。 そして、実母が施設にいる事を、元夫の両親には伝えたが、本人には伝えず、勇気の精神状態を考えて、実母とは名乗らず会わないようにする事となった。 そして後日、本人の希望で、養子先で付けられた『佐々木光(ヒカル)』という名前で呼んでほしいと伝えられた。 由香は、篤史や施設の人達一人一人にお礼を伝えて周った。 『名前なんかなんでもいい、顔を見て話せなくてもいい、勇気が近くに居てくれるなら…』 その現実に、不謹慎だと思いながらも嬉しさがこみ上げてきた。 そして、3月の終わり…。 老人ホームの門の前では、父親との対峙で怪我をしたお腹を押さえて、ゆっくりとタクシーから降りる勇気がいた。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加