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階下から周平が上ってくる音が聞こえて、ドアが叩かれた。
「姉ちゃん、今日もオレらのキャッチボール見る?」
「見るわけないでしょ、昨日も別にあんたのキャッチボールを見てたわけじゃないから」
「見てたじゃん」
「違う。外の風に当たりたかっただけ」
「はいはい。気になったらいつでも来ていいからね」
「気にならないから」
周平の足音は去っていった。
家族で千葉に出かけるときは周平もいつも一緒だったが、周平は東京への憧れを地元に持ち帰ることはなかった。地元にない沢山の珍しい景色や美味しい食事を精一杯に楽しんで、でもそれっきりだった。周平にとっては地元の野球チームの友達と遊んだり、スタメンとして週末の試合に出られるかの方がよっぽど人生の重大ごとらしかった。年の離れた弟に対して持つ感情としては少し複雑だが、周平のすっきりとした物の見方が詩緒には少し羨ましかった。
詩緒は最近ふと思うことがある。自分は小学生だった頃も同じような感情を持っていただろうか。自分が生まれ育ったこの場所を少し退屈だと思ってしまうような感情を明確に持ち始めたのはいつだったろうか。気づいた時には自分の中に明確に芽生えていたが、それがいつ始まったのか、思い出すことは出来ない。父の声が聞こえる。弟とのキャッチボールが始まったのだ。
また階段を上る音が聞こえる。母だろう。
「明日、大晦日だからお母さん買い物に行くけど、来る?」
「ああ、うん。一緒に行こうかな」
「そ、じゃあ支度できたら下りてきて」
「わかった」
気づけば時計は16時を回っていた。部屋の隅に置いてあるトランペットを眺める。冬休みの間は所属している吹奏楽部の練習は自由参加になっていた。詩緒としては絶対に参加したくないというほどの拒否反応は無かったが、周りの部員から詩緒は絶対こなそうと言われ、自分としてもなんとなく行かなくていいかという気持ちになり、結局まだ一度も参加していない。でも、不参加で出来た暇を有効活用することも出来ていない。とにかく、この冬休みを無為に過ごしている。明後日には新年だという実感が詩緒には全く無かった。とりあえず上着を着て、マフラーを巻いて階下に降りた。
「あら、もう準備できた?」
「うん、いつものスーパー?」
「そうね、もう時間も少し遅いからそうしましょうか」
家の戸をガラガラと開けて外に出て、母は母の自転車にまたがり、詩緒も自転車を押して庭から道路に出た。家のすぐ近くにある保育園までまっすぐ進んで、そこを左折する駅の方角に向かって真っすぐ走る。ふと視線を右に移すと、開けた景色の中に昨日見かけた男の子が温泉がある方から歩いていくのが見えた。ピンク色の紙パックの飲み物をストローで飲んでいる。荷物の大きさからみて着替え、なんだろうか。あの温泉には詩緒も二日前に初めて行った。
「お母さん、明日さ、家でお風呂入らないで温泉また行ってきてもいい?」
「え?お風呂もうお湯出るように直してもらったじゃない?」
「いや、露天風呂とか、なんか気持ちよかったから。また行きたいなって」
「そう、うん、いいわよ。じゃあ明日またお金渡すね。一人で大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
「多分、大晦日だからどこもいつも早く閉まるんじゃないかしら。後で確認しておくわね」
「ありがとう」
詩緒の眼前に夕焼けが広がっていた。時々、普段と全く違う考えが頭に浮かぶことがある。自分にとっての異世界である東京も必ずこの空の先にあるのだ。自分が今、鳥のように羽ばたいて、この空を雲よりも高くずんずんと突き進めば、そこにあるのだ。距離は、結構あると思うけど。詩緒は自分の頭の上から東京に向かって伸びるピンと張った糸を思い浮かべる。そして、その糸に指先でチョンとふれる。糸は少したわんで揺れる。糸に等間隔につるされた鈴が近いほうから音を立てる。その音はどんどんと遠くの鈴へ伝えられていき、ある時点から詩緒の耳にはもう届かない。それでも鈴の音は東京に向かって着実にバトンをつないで進んでいく。もうそろそろ届いただろうか、まだまだ全然だろうか。詩緒は夕焼けの奥をじっと見つめた。
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