1日目

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家の中に入ってから、友介は玄関で雪を落とし、祖母が部屋に戻って取ってきたタオルでジャンパーを撫でるように拭いた。室内に入るだけで身体は幾分か温かく感じたが、耳や指先は取り残されたように冷たく固くなっているような感触があった。うかつにも東京で履いていたスニーカーでこの東北の地に降り立った友介の両足の靴下は室内の温度で溶かされた雪によって水浸しという表現がぴったりくるようなありさまだった。 「友介、もうそれを脱ぎなさい、脱ぎなさい」 祖母は会話のイントネーションはおかしいが、限りなく標準語に近い言葉をしゃべるので、友介は祖母としゃべる時は母親の通訳を必要としなかった。友介の祖母はいつも友介の「すけ」の部分を強調した尻上がりのイントネーションで呼んだ。 友介は濡れた靴下を脱ぎ、ズボンも脱ぎ、ジャンパーは祖母に渡して、その下に着ていたパーカーも脱いだ。 「もうシャワーに入ってしまいなさい」 東京からビニール袋に入れて持ってきた着替えから一回分を取り出して、祖母に促されるがまま、玄関を上がって左手の通路にある浴室に入った。浴室のやけにオレンジ色が強い照明の下で残りのシャツやパンツも全て脱いで、東京からこの浴室までの移動を締めくくるように深呼吸をして、友介は鏡の中の自分と目を合わせ、ドアの向こうにいる祖母には聞こえない声量で自分に向かって「おつかれ」と声をかけた。普段は自分で気恥ずかしくなってしまうようなそんなことを友介がやってのけることが出来てしまうのはその東北の地を自分が普段住む世界とは別の世界であると意識していたからだった。 シャワーヘッドから出てくるお湯は東京のそれと何も変わらなかったが、今年一番に冷えた友介の皮膚を溶かしていくような心地よさがあった。友介は石鹸も使わずに、しばらくただひたすらに頭からお湯を浴び続けていた。東京の友達には親の実家に帰省すると言っても、それが神奈川だったり千葉だったりする人が多く、それに比べて自分の境遇は恵まれていると感じた。ここでは明らかに、普段生きている世界とは時間の流れ方が違うように感じた。今、自分がこの地にいる間も、東京にいる友達たちはいつものように東京の時間を過ごしているという事が急に不思議に思えた。 身体全体があったまったので、頭を洗い、身体を洗った。祖母は準備が良く、バスタオルもちゃんと目に付く場所に置いてあり、友介はそれで身体を拭いて先ほど持ち込んだ服に着替えて、居間に向かった。 祖父母の家の居間には重厚な温風式のストーブが備え付けられていて、引き戸を開けた瞬間に部屋の暖かさが友介を包み込んだ。居間は来客があっても、その全員が座れるような数のソファがL字型に配置してあり、座り心地も良いものだった。祖母は居間の隣の部屋のキッチンで何か準備をしているようで、友介はソファに腰かけて、少し遠くにあるリモコンには触らず、流れているテレビのチャンネルをそのまま見ていた。 「ほれ、これ」と祖母は豪華な寿司のパックとみそ汁を持ってきて、友介の前に置いた。友介の母であれば、寿司のパックをどこで買ってきたんだとか、安かったんだとか、そういうことを話し始めそうなもんだったが、祖母は豪華な料理を用意してもそれについて、ああだこうだとは説明をしなかった。新幹線の席に着くまでは不安だったから、そういえば駅弁などは食べていなかった。昼飯を抜いたかたちになっていた友介は寿司もみそ汁も軽く平らげ、祖母はすかさず、みそ汁のお代わりをよそった。 「じいちゃんは別荘?」と友介が聞くと、祖母は「んだんだ」と言った。短いフレーズは祖母も方言が混じっていた。「別荘」というのは言葉通りの意味ではなく、腕のいい大工だった祖父が敷地内に自分で建てた小屋の事だった。友介が小さいときにその建物のことを「別荘」と呼び、大人たちはその呼び方が何だか気に入って、その小屋は通称「別荘」となった。 しばらくすると、裏手の入り口から祖父が入ってきた音がした。友介は食事が終わった後も何となく居間に座ったままでいたが、少し経つと、祖母がガラガラと引き戸が開けた。 「じゃあもう、ババは寝るから」 祖母は友介に向かっては自分のことをババと呼ぶ。時刻はまだ20時を回ったところだったが、祖父母はいつもそれくらい早く自分たちの部屋に戻っていくのが常で、それから後はいつも友介と両親だけの時間だった。ただ今年はその両親はいないので、友介はポツンと居間に一人になった。 元々興味が無かったテレビの電源を消して、友介はとりあえず寝室に向かうことにした。友介がいる居間はコの字型の下の横棒の左先にあり、友介が祖父母宅に来た時の寝室は『コ』の字を下の横棒から縦棒へ、そして上の横棒へと廊下をずっと歩いて行く必要がある。部屋に着くと、もう敷布団が綺麗に敷かれていて、つくづく祖母の配慮は行き届いていた。自分の訪問にここまで気を割いてくれていることが友介は嬉しかった。 寝室はふすまで仕切らなければ非常に広い空間で、あまりにも広くてなんだか眠りにくいので、友介はきっちりとふすまを閉めて、自分が眠るスペースを区切った。まだ時間としては早かったが、いざ身体を横たえてみると今朝からの旅の疲れもあって眠れるかもしれないと感じた。ふっと意識が飛びそうに感じたその時、部屋に近づいてくる足音が聞こえた。 「友介、友介」 祖母だった。ふすまを開けると、祖母は右手に黄色い紙を持っていた。それはいつも友介がここに来たその日に祖母が渡してくれる近くの温泉の回数券だった。祖母は友介がその温泉が大好きであることを知っているので、必ずそれを用意しておいてくれるのだった。友介は10日しか滞在しない予定だったが、祖母は20回分の回数券を手渡して、ふすまを閉めた。 友介は再び横になった。明日から、あの温泉、露天風呂に毎日浸かれる。その想像は友介の気持ちをより心地よいものにした。友介はすぐに深い眠りについた。
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