2日目

4/4
前へ
/13ページ
次へ
年配の人たちの話し声や体を洗う音、湯につかる音、湯から出るときの音、あらゆる音がぶつかり合って混ざり合う。それらの音は非常に騒がしいが、ひとたび露天風呂に繋がる戸を開ければすぐに発散されて、戸を閉めれば遥かに遠ざかる。友介はこの戸を閉めた瞬間に本当にこの露天風呂にまた帰ってきたのだと認識した。 友介はまず腰のあたりまで湯につかれる石に腰かけて、身体半分を温める。雪はひらひらと降っていた。友介はいつも「どうして雪という天気はこんなに人に好かれるのか」を不思議に思っていた。首都圏の天気予報に出てくる天気はだいたい晴れ、曇り、雨の三つだけで雪が降れば大騒ぎだ。晴れはいつでも歓迎され、曇りは雨の存在によってまだマシとされ、雨は悪者扱いだ。友介がいつも不思議に思っていたのは雨と雪の違いだ。雪は結局溶ける、そうすると着ている服は濡れ、昨日の自分も玄関ではずぶ濡れになっていた。結果としてはあまり変わらないように思える。それなのに友介は自分も含めて雨よりも雪の方が好きな理由を見つけたいと思った。 落ちてくる速さだろうか。例えば、雪のようにひらひらと落ちてくるものに桜がある。あの桜の落下速度が3倍速かったらどうだろうか。桜は嫌われ者になるだろうか。友介は想像しようとするが、あまりうまくはいかない。結局、速く落ちてくる桜を、人はそれはそれで楽しむような気がした。友介は目の前に落ちてくる雪をじっと見つめた。ひらひらと落ちてくる雪は湯に触れると同時に溶けて姿を消す。このはかなさも桜に似ている。桜は散った後、地上にその痕跡を残すが雪は痕跡すらも残さずに消える。本当にその一瞬だけ人の目に見えるかたちで舞い、その後はもうこの世界のどの部分に変わったのか分からない。友介は上半身が少し冷えてきたので肩まで湯につかる。身体はあったまっているのに顔を包む冬の冷たさを感じる。これがたまらない。 一人、50代くらいのおじさんが戸を開けて湯に浸かる。「あ~」という声を出した。本当に気持ちがよさそうな顔をしている。湯を両手ですくい上げ、顔にバシャッとかけて、天を仰ぐ。この土地の人だろうか。言葉を聞けばすぐに分かるが、見た目では分からない。友介にとって、この温泉に来ると年配客の全てが「常連」に見えた。自分だけがこの土地を訪ねた客で他の人たちは全員、この土地に根付いているような感覚があった。とにかく自分はこの土地に「訪れている」のであって「住んでいない」のだという感覚がいつもあった。 そのおじさんが湯から出た時、自分は随分と長い間、湯舟に浸かっていることに気づいて友介は室内に戻った。一通り身体を洗い、更衣室に戻って服を着て待合のスペースに出た。さっきマッサージチェアに座っていた老人の姿はまだそこにあった。いい加減、起こしてあげないと老人にも予定というものがあるだろうと思ったが、もし本当に何の予定もなく気兼ねなくここに寝ていられるという事なのならば、それはそれで本当に羨ましいと思った。学校の宿題から学べないことが、この老人から学べるような気がした。 友介は置いてあるソファに腰かけ、コーヒー牛乳を飲んだ。別にコーヒー牛乳が大好きなわけではないが、「温泉と言えばコーヒー牛乳だろ」と誰かが昔に言っていて、その誰かが誰なのかは全くもって思い出せないのだが、きっと温泉と言えばコーヒー牛乳なんだろうという事でいつも必ずコーヒー牛乳を湯上りに飲むようにしていた。コーヒーと言っても苦くはない。悪くない味だ。 幼い声が聞こえたので振り返ると、さっき更衣室ですれ違った男の子とその父親だった。男の子の方はまだ機嫌が悪そうで早く帰りたいと言っていて、よく聞くとそれは見たいアニメに間に合わなくなるということだった。誰かを待っているのだろうかと思ったその時、女湯の出口から友介と同い年くらいの女の子が出てきた。男の子のリアクションを見ると、どうやらその女の子が男の子のお姉さんらしかった。 男の子とは打って変わって落ち着いていて、風呂上りだからか分からないその透き通るような白い肌がとても綺麗だった。女の子は父親に小銭をもらって、飲み物を買った。いちごオレだった。女の子はストローを刺してからすっとそれを飲み終えて、パックをゴミ箱に捨てた。騒ぐ弟をいなす声も落ち着いていた。友介はその声に非常に知的な印象を覚えた。三人は帰っていく。友介は恐らくこの先会うこともないだろう女の子を目で追いかけた。見えなくなる寸前、女の子もこっちを見た気がして、友介は反射的に視線をそらした。ドアが閉まる音。三人が外に出たことを確認する。そらした視線の先でいちごオレをしばらく捉えて、思い出したように自分のコーヒー牛乳を飲み干した。時間はまたゆっくりと流れ始めた。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加